中島義道『ひとを<嫌う>ということ』

中島義道『ひとを<嫌う>ということ』角川文庫、2003年8月
出来れば他人から嫌われたくないし、自分も他人を嫌いたくない。しかし、どうしても「嫌いだ」と感じる人はいる。そして、人を嫌うなんて最低だと自己嫌悪に陥る。
教師という仕事をやっていると、どうやってもすべての学生から好かれることなんてできない。そうわかっていても、「嫌われる」ということはつらいものだ。「嫌われる」自分の何が問題なのか、おそらく多くの人は思い悩むだろう。
人を好きになるのと同様に、人を嫌う(人に嫌われる)のもまた「理不尽」なことであるという。たしかに、生理的としか言いようがない場合もある。だから、「嫌い」という感情を無理に「好き」に変える必要はないのだろう。本書では、<嫌い>もまた人生を豊かにするのだという。したがって、<嫌い>から逃げださずに、しっかりとそれを見つめ、「大切にしてゆきたい」(p.224)と言う。

どんなに誠心誠意努力しても、嫌われてしまう。どんなに私が好きでも、相手は私を嫌う。逆にどんなに相手が私を好いてくれても、私は彼(女)が嫌いである。これが、嘘偽りのない現実なのです。とすれば、それをごまかさずにしっかり見据えるしかない。それをとことん味わい尽くすしかない。そこで悩み苦しむしかない。そして、そこから人生の重い豊かさを発見するしかないのです。(p.224)

というわけで、<嫌い>について、さまざな観点から分析がなされている。
本書を読みながら思ったことは、<嫌い>という感情を受け止めることの重要さだ。昨今、多文化共生ということも言われているが、多文化共生で欠けている視点がこの<嫌い>という感情だと思う。もっと正確にいえば、<嫌い>は努力を続ければ克服できるという視点で共生が語られており、多文化共生では<嫌い>という感情を真正面から受け止めていないのではないか。

 こうして、猫の肉を食べることに対する嫌悪感、近親相姦に対する嫌悪感、女装し女の仕種をする男性に対する嫌悪感など……、文化的・歴史的に伝承された分厚い重たい嫌悪感であって、個人がそれを乗り越えることは(残念ながら)至難の業なのです。もちろん、だからしかたがないとはならない。しかし、こうした理不尽な「嫌い」を徹底的に探究したうえで、こうした理不尽さに対処することを忘れてはならないでしょう。そして、今のところ私にはその解決の仕方はわかりません。(p.176)

多文化教育では、こうした理不尽な「嫌い」を、努力して乗り越えることが目指される。それも大事なことではあるが、<嫌い>を<嫌い>のままで、それでも一緒に生活すること、これもまた重要なのではないかと思う。

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)