川上弘美『センセイの鞄』

川上弘美センセイの鞄』文春文庫、2004年9月
駅前の居酒屋で出会って以来、ツキコとセンセイの交流がはじまる。年の離れた二人だが、一緒に飲むようになって、徐々に親密になっていく。ツキコはセンセイのことを強く思い始めるが、センセイは逃げた妻のことが忘れられないでいた。先生と教え子の関係から、しだいに男と女の関係へとゆるやかに変化していくプロセスが、丁寧に描かれていて、味わい深い作品。センセイは、たしかに高齢ではあるが、けっこうかわいらしい一面をもっており、ツキコとの掛け合いが非常に楽しい。

 正式には松本春綱先生であるが、センセイ、とわたしは呼ぶ。
「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」だ。(p.9)

冒頭部分であるが、この文章を読んで思い出すのはやはり漱石の『こころ』だ。

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。

『こころ』とは異なり、『センセイの鞄』では作中でセンセイ(松本春綱)の名前もツキコ(大町月子)の名前もはっきりと書かれている。しかし、センセイとツキコの交流の場面ではカタカナで表記される。大町月子と松本春綱の関係ではなく、あくまでもテクストはツキコとセンセイの関係を描いているのである。ツキコと月子、先生とセンセイの差異に何か意味があるのだろうか。川上作品では、他にも登場人物の名前がカタカナで表記されることがある。川上作品におけるカタカナ表記の意味は気になるところ。

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)