島泰三『安田講堂 1968-1969』

島泰三安田講堂 1968-1969』中公新書、2005年11月
1969年1月18日から19日に起きた「東大安田講堂事件」を、「安田講堂内部から見た者による証言」である。全共闘運動は、思想関係の本を読んだりするとしばしば目にすることがあるが、実際に学生が何をしていたのか、何を考えていたのかが分からなかった。なので、当時何が問題だったのか、学生は何に対して怒っていたのかが、長い間気になっていたのだが、本書を読んで、事件に至るまでの経緯や当時の様子ようやく見えてきた。
それにしても、当時はすごかったなあというのが率直な感想。ほとんど戦争か?と思うぐらい激しい争いが、大学の構内で行われていた。激しい騒動が起きるたびに、あるいは安田講堂での攻防戦のときなど、学生たちが「死」を覚悟していたとあって驚く。というか、封鎖解除のために機動隊がやったことは相当ひどい。催涙ガスの入った弾を発射するガス銃を大量に使っていたのだが、この弾は「二十メートル離れてベニヤ板を打ち抜く威力」があるという。危険だから人を直接狙った水平射撃は禁止されているが、その日はガス弾を学生に当てることが目的となっていた。(p.227)恐ろしい。実際、顔を撃たれた人がいるわけで、顔面を狙って射撃していたのだなと。よく死者が出なかったなあと思う。他にも、学生を逮捕した後に暴力を加える、しかも手錠を掛けたうえで殴ったり蹴ったりしていたという。今なら、そんな映像がニュースで流れたら大変なことになるのじゃないか。また、催涙ガスも使われたが、これなどは長時間浴びると火傷を起こすものだったらしい。
では、そもそも何が問題となっていたのか。医学部が問題だった。医学部を出て国家試験を通った者は、インターンとして一年間は医局で働くことが義務づけられていた。しかし、これは医師でも学生でもない中途半端な身分であり、また「無給医局員」と呼ばれ、正規の給料は支払われない身分であった。しかし、研修のカリキュラムなどなく、要するに誰もが嫌がる仕事の下働きを無理矢理させられていたというわけなのである。「つまり、インターン制度とはいい歳をした青年医師が使い捨てられる体制であり、旧い徒弟制度の慣習を利用した病院の営利主義経営の柱だった」(p.19)。
もう一つ激しい闘争が行われた日大では、大学の教育のあり方が問題となった。つまりマスプロ教育による大学の腐敗だ。営利主義の大学は、水増し入学によって、大量の学生が入学してくる。いざ、講義が始まると、当然学生は教室に入りきれない。そういう状態に学生は絶望して、授業料だけ納めて講義に来なくなる。また日大は、学生の管理体制も酷かった。体育会運動部が学生ひとりひとりに目を光らせて学生管理をする暴力支配体制でもあったという。
今から見ると、信じられないことばかり語られていて、ただただ驚くばかり。学生が抗議するのも当然か。

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)