メモ――「野蛮」なのはどちらだ?

意味不明な文章を見つけてしまった。あとで考えるためにメモしておきたい。

「極西」世代より上のアメリカ文学者や作家にとって、『白鯨』とコンラッドの『闇の奥』、そしてフィツジェラルドがひとつのトライアングルを形成していることは間違いない。

この「「極西」世代より上のアメリカ文学者や作家」とは、具体的にどのへんの人たちなのだろう?。次の段落では、「コッポラ」が触れられているが、とするとこの「「極西」世代より上のアメリカ文学者や作家」とは「コッポラ」あたりの人なのか?

彼らにとってサリンジャーが扱いにくい作家であることも、なにか理由があるはずだ。大雑把に言えば、そこに「近代文学」と「現代文学」の間の裂け目があるのだと思う

さらに、先の引用箇所にこのような注がついていた。ここもよく理解できない。「彼らにとってサリンジャーが扱いにくい作家である」というのは、具体的にどのようなことなのか。たとえば、「コッポラ」の世代が、「サリンジャー」を意識的か無意識的に無視しているということなのだろうか。そういう事態が、少なくともアメリカ文学の世界に見られるのだろうか。(アメリカ文学や文化の事情がまったく分からないので、この問題については本当に知りたい。専門家の方が、きちんと批評すべきことだと思う。)
さらに、この問題が、「近代文学」と「現代文学」の裂け目となるとは、どういうことなのだろうか?。このような「○○」と「××」には裂け目がある!といった言説を見かけることがたまにあるが、こういう言説には注意する必要がある。むかし、「色」と「恋愛」の問題で、江戸と明治の間に裂け目があるのかないのか、という議論があったのを思い出す。断絶やら連続性やら、そう簡単に言えることではない。
そもそも、このように「そこに「近代文学」と「現代文学」の間の裂け目がある」と言う時、「近代文学」とは何を指しているのか、「現代文学」という言葉によって、何を指しているのだろうか?。「裂け目」云々よりも前に、論じなければならない問題があると思う。脇道に逸れるが、私はこの観点から『現代文学のレッスン』(悪い本ではなかったが)も読み直してみなければならないと考えている。
文学テクストを読み込むこともせず*1、自分勝手な「近代文学」「現代文学」のイメージで、二つの間に「裂け目」をねつ造する。これを扇動と言うのではないか。こうした二項対立の罠に、私たちは陥ってはならない。「近代文学」とは何か、「現代文学」とは何かを考えずに、簡単に「裂け目がある」と述べてしまうのは、「批評家*2」としては「野蛮」な振る舞いだと思う。

*1:文芸批評の基本的な作業なはず!

*2:と呼んでいいのだろうか?