中島梓『夢見る頃を過ぎても』

中島梓『夢見る頃を過ぎても――中島梓の文芸批評』ベネッセコーポレーション、1995年6月
これは、かなり面白い文芸批評だった。正確には、文芸時評かもしれないが、今読んでも参考になることが多い。文学は今現在ほんとうに存在価値があるのか、それを真剣に考えているのか。本書の問題意識はここにある。冒頭で「すっかり小説嫌い」になったというあたりに、かなり文学の「ムラ」への挑発がこめられている。挑発的だけど、実際に読んでみると、全然嫌味じゃないのがすごい。徐々にわかってくるのだが、中島梓はほんとうに小説嫌いなわけではない。逆に、「物語」への強い欲求が感じられるのだ。
やっぱり、凄いのは、大塚英志ばりに、物語のパターンを知り尽くしてることだ。文学なんてものは、文字という記号の組み合わせであることも充分すぎるほど知っている。それでも、まだ小説を文学を楽しもうとしているのかと思ったら、ちょっと感動的になった。シニカルに見えるのだけど、文学の可能性を深い奥のほうで信じているのだなあと。だから、いくら挑発的な文章を書いても、嫌味な感じがしなかったのだろう。
ついでに気になったことを幾つかメモしておく。このなかで、村上龍と春樹の二人の小説を読んでいる(『五分後の世界』、『ねじまき鳥クロニクル』)。この解釈も非常に卓抜なもので、参考にしたいところだけど、この二人の作家が期せずしてともに「それでも/ぼくは/ここで/生きますッ!」(p.131)に収斂していくことを指摘している。そして、そのことは重要なことなのではないかと述べている。

私たちは結局のところたえず「それでもなお」受け入れることを求めている存在なのである。だからこそ、すべてがヴァーチャライズされてまったく同じ重さしか持たない情報の何ビットかづつに還元されてゆく世界にゆきついてしまったからこそ、私たちは物語へと飛翔してゆく方法を探す村上龍の小説と、またしても立ちすくんだまま「それでもこれでいいんだ」と云い続けようとする村上春樹の小説を飽きることなくベストセラーにしてしまうのだ。(p.131−132)

徹底した記号化、形式化を経ても、それでも「物語」を求めてしまう心性が私たちにはあるのかもしれない。いや、きっとあるからこそ、この文芸批評から10年経った今、「ロマン主義シニシズム」という分析もできるのだろうなと思う。
もう一つ気になったこと。この本では、阿部和重の『アメリカの夜』についても言及されている。中島梓は、『アメリカの夜』に対してはダメだしをしていて、とにかく読みにくいと書いている。
書き手というのは、自分の見たもの、経験したこと、あるいは伝えたいことなどを書いているはずだという。だけど、それをどうやってコトバにして伝えるかという段階に問題があると指摘している。この指摘は興味深い。

おそらく阿部さんも松尾さんも「だってそれは自分が確かに見たものだから」「だって本当なんだから」「だって自分が本当だといっているんだから」ということに頼って、何もそのコトバが本当に相手に同じ重さと意味を持っているコトバかどうかを検証することをしなかった。(p.96)

この指摘が、『アメリカの夜』に妥当であるかどうか、また別に考察しなければならないが、しかし、この「だって自分が本当だといっているんだから」当然相手も分かるだろう、という認識は文学だけの問題か?現代社会の分析にも使えそうな気がする。