庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』中公文庫、1973年6月
セカイ系」なんてものがある現在の文学と、この小説はどこか繋がるところがあるのかどうか。そんなことが気になる。
ここでは、「戦後民主主義」というものが主題となっている。「ぼく」は母親から「自分のことは自分でしなさい」というのと「ひとに迷惑かけちゃだめよ」と言われている。そして、「ぼく」である薫はこの二つだけで済んでしまう、まったく手の掛からない子どもなのである。
しかし、薫の兄貴の解釈では、母親のこれらの言葉は、「民主主義に対する可愛らしい錯覚」(p.93)という。兄貴によれば、民主主義には「ひとに迷惑かけちゃだめよ」の上に、「みんなを幸福にするにはどうすればよいか」(p.93)が必要だとのこと。しかし、薫は普通に「民主主義」という言葉を考えると「おふくろ的錯覚」から抜けだせそうにないと思い、「みんなを幸福にするにはどうすればよいか」がわからないうちは、「ひとに迷惑かけちゃだめよ」で精一杯やっていくほかはない、「自分のことは自分で」やるしかないのではないかと思ってしまう。そして「つまらない若者」になってしまうという自意識に鬱々としてしまうのだ。
どうだっていいのではないか、というニヒリズム、無気力に陥る薫だが、最後に幼い少女との出会いが転機となって「ぼくは海のような男になろう」「ぼくは森のような男になろう」という決心をするに至る。

ぼくには、このいまぼくから生れたばかりの決心が、それがまるで馬鹿みたいなもの、みんなに言ったらきっと笑われるような子供みたいなものであっても、それがこのぼくのもの、誰のものでもないこのぼく自身のこんなにも熱い胸の中から生れたものである限り、それがぼくのこれからの人生で、このぼくがぶつかるさまざまな戦い、さまざまな苦しい戦いのさ中に、必ずスレスレのところでぼくを助けぼくを支えぼくを頑張らせる大事なものになるだろうということが、はっきりとはっきりと分かったように思えたのだ。(p.162)

「ぼくから生れ」、「ぼくのものである限り」、それが自分の支えになるという感慨は、たとえば舞城作品あたりの認識に近いのではないか?と思う。それにしても、この引用部分の言葉遣いはなぜかくどい。良い文章ではないなあ。
興味深いのは、作者自身が「四半世紀たってのあとがき」という文章のなかで記しているのだが、この「薫」少年が左足の親指の爪をはがすという怪我をしており、まともに歩くことができない状態にあるということだ。
この怪我が、たとえば美人女医との危うい関係を引き起こしたり、最終的に幼女との出会いに繋がるわけなのだから、足を怪我していることの意味は明らかに大きい。

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)