阿部和重『グランド・フィナーレ』

阿部和重グランド・フィナーレ講談社、2005年2月
どうやら阿部和重は、中上健次の「路地」のように、「神町」を自家薬籠中の物にしたようだ。中上健次で、一つの土地を舞台にした物語(ゲニウス・ロキとでもいえばよいのだろうか)は解体してしまった、と思った。しかし、ここにきて阿部和重が中上の後を受け継ぐように、「神町」の物語を語り出した。「物語」はそもそも死んでなどいなかったのではないか。「物語」の解体、「物語」の終焉などという言葉を簡単に信じていてはいけないのだろう。「物語」好きとしては、阿部のこのような試みは大歓迎であるし、今後、どのように展開するのかが非常に気になるところだ。
すこしあらすじを見ておこう。主人公の「沢見」はいわゆるロリコンであり、それが原因で離婚させられ、働いていた教育映画会社もくびになる。しかし、沢見にとってなによりダメージが大きかったのは、最愛の娘「ちーちゃん」との別れであった。その沢見が故郷(つまり「神町」)に戻り、そこで二人の女子で出会う。そして、この二人の女の子との交流と通じて、沢見がどう変化していくのか、あるいは何も変化などしないのか、物語の筋はこんな感じだろう。
さて、「ロリコン」である。幼女性愛といえば、この前読んだ高橋源一郎の『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』も同じテーマを扱っている。そもそも「ロリコン」の文学で有名なものといえば、ナボコフの『ロリータ』であろう。「ロリコン」の文学の系譜では、たいてい『ロリータ』が筆頭にあげられる。「ロリコン」を狭義に取らず、範囲を広げて年下の幼い女の子への(性的なものを含んだ)愛情とすれば、日本なら『源氏物語』もそう言えそうだし、ナボコフとの比較がしばしば言及される谷崎潤一郎の『痴人の愛』もまた「ロリコン」の文学と指摘できるのかもしれない*1
このように振りかえると、「グランド・フィナーレ」は、ある意味では文学の伝統的なジャンルであろう「ロリコン」の文学の系譜に連なっている。奇をてらった作品ではなく、非常にオーソドックスな「文学」だと言えるのではないか。その意味で、この小説は芥川賞受賞にあまりにもふさわしすぎる作品なのかもしれない。
話は脱線してしまうが、ここへきて「ロリコン」がクローズ・アップされているのはどうしてか、という問題も気になる。ロリコンの傾向を持つ男を描くことで、何を表現しようとしているのか。同時代現象として興味がある。これはやはりきちんと系譜を、すくなくとも日本における「ロリコン」文学の系譜を抑えておかないと簡単には論じられないだろう。
他にもこの小説には、阿部和重を論じるにあたって興味深い細部が多い。たとえば、なぜか「Y」と「I」というように、イニシャルで呼ばれる人物がいる。これは、たとえば『ABC戦争』を思い出す。また、沢見は高校を卒業して、上京して映画会社で働いていた。こうした経歴の男は、阿部作品に頻繁に登場する。高校を退学して上京、映画に関わる仕事をしているという人物が、一つの形として阿部作品にはある。これはもちろん、阿部和重自身のつまり作家の経歴が反映していると言えるだろう。その解釈は妥当だと思う。しかし他にこうした「男」について言えることがないかを考えてみたい。

グランド・フィナーレ

グランド・フィナーレ

*1:しかし『痴人の愛』は微妙なところがあるかもしれない。