市川浩『<私さがし>と<世界さがし>』

市川浩『<私さがし>と<世界さがし>』岩波書店、1989年3月
精神としての身体 (講談社学術文庫)〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)
市川浩といえば身体論である。身体論といえば市川浩なのである。というわけで、一時期は多くの研究者や批評家が参照していた。日本近代文学研究も例外ではない。いまでも現象学をかじった人は、つい市川浩を引用してしまうのではないだろうか。
私も身体論に興味があるのでいつかは著作を読まないとなあと思っていた。講談社の学術文庫には『精神としての身体』とか『<身>の構造』があり、どちらも有名な本だ。「錯綜体」とか「身」という概念が、批評家の心を打つらしい。
こういうことを漠然と知ってはいたが、私はこれまで直接市川浩の本を読んだことがなかった。この前、『漱石と三人の読者』を読んでいたら、市川浩の言葉がちらっと引用されていた。その元が、この『<私さがし>と<世界さがし>』だった。そこで、さっそく古本屋で探して手に入れ、読んでみたのだが…。
寺山修司の批評とか『去年マリエンバートで』の批評は、けっこう面白いことが書かれてあった。だけど率直に言って面白い本ではない。理論的な考察を進める四章あたりは、ざんねんながら「退屈」としか言いようがない。現象学を学んだ人(鷲田清一とかだけど)がよく行う言葉の語源から「文化」を論じていくスタイルって、昔は流行したけど今はもう古いと思う。この方法は、どこか「文化本質主義」的な匂いがする。すごく危うい。うさんくさい。
この本を読んだら、一気に市川浩への興味が薄れてしまった。この本を読む前までは、身体論の大家として、ひそかに憧れていたのだが。それも幻だったか。辛抱して、他の本を読んでみるべきか。悩むところである。