森鴎外『渋江抽斎』

森鴎外渋江抽斎岩波文庫、1999年5月(改版)
この前読んだ『百年の誤読』のなかで紹介されていた。その中で、評者の二人ともが苦手な作品と述べていたので、一体どんなことが書かれているのかが気になったのだ。
読みはじめてみるとすぐに気が付くことだが、この小説は人物の記述が異常に「詳しすぎる」。おまけに淡々とした記述している。たとえば、抽斎の日常生活をこんな風に記述する。

飯は朝午各三椀、夕二椀半と極めていた。しかもその椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽信順が抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常のよりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、婢をして盛らしむるときは、過不及を免れぬといって、飯を小さい櫃に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の未醤汁も必ず二椀に限っていた。(p.185)

どうやら鴎外は「歴史其儘」という考え方をこの作品で実践したらしい。要するに、書き手の判断を何も書かずに、事実だけを客観的に記述していくスタイルだ。この鴎外のスタイル、私はけっこう好きだ。だけど、こんなこと言ってはなんだが、読者にしてみれば、「渋江抽斎」なんて一般に有名ではない人の日常生活にこれほど詳しくなっても仕方がないかもしれない。
とは言うものの、私にはこの本が「渋江抽斎」という人物の研究書だとは思えない。そこかしこに鴎外の想像=創造が侵入しているはず。だからこれは評伝のスタイルと採っているが、紛れもなくこれは小説なのだと思う。
ちょっとタイトルが良くないと思う。『渋江抽斎』というタイトルでは、この抽斎という人物について鴎外が書いているように読者は思ってしまう。もちろん、抽斎を中心にこの小説は語られているけれど、けっして抽斎ただ一人について語った作品ではないのだ。抽斎と関係した人物や家族に関しても逐一報告していく。しかも「詳しく」。実際に読んでみると分かるのだが、抽斎の嫁の「五百(いお)」のほうが生き生きと語られているではないか!他にも不良の息子についてのほうが抽斎自身についてよりも詳しく書かれているし。したがって、この小説は「渋江抽斎とその時代」と言ったほうが正確なのではないかと思う。
だいたい、主人公の渋江抽斎は途中、それも約半分あたりの箇所で、病気になってあっけなく亡くなってしまうのだ。そのへんの描写を引用してみよう。

 八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐の饌に向った。しかし五百が酒を侑めた時、抽斎は下物の魚膾に箸を下さなかった。「なぜ上がらないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始めて嘔吐があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。(…)
 抽斎の病況は二十八日に小康を得た。(…)
 二十八日の夜丑の刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸は谷中感応寺に葬られた。(p.159−160)

以後、この小説は「抽斎没後の第○○年は、○○年である」という書き出しで、ひたすら抽斎没後の家族の様子を、鴎外がこの作品を執筆している時間まで追いかけていく。普通『渋江抽斎』というタイトルの本なのだから、主人公の抽斎が亡くなったらそれで終わりなのではと思うのだが、鴎外はそこで執筆を止めることはない。これがよく分からない。鴎外が本当に興味・関心を抱いていたのは何だったのだろう?まったく不思議な小説だ。

渋江抽斎 (岩波文庫)

渋江抽斎 (岩波文庫)