物語/小説

蓮實重彦『小説から遠く離れて』河出文庫
作家の資質も異なるし、方法意識も異なるのに、なぜかある時期の長編小説が、みな同じような説話論的な構造をしている。これはいったいどういうことを意味しているのか。というのが、本書の大きな問題となる。そこで召喚される作家は、たとえば村上春樹井上ひさし丸谷才一大江健三郎中上健次石川淳といった面々。たしかに、バラエティに富んだ選択だ。これらの作家の作品を中心に分析されるのは、「小説」ではなく、あくまで「物語」であるということが重要。すなわち、ここでは「形式」が問題となっており、おいおい文体や思想といったものは無視されるだろう。説話論的な還元という方法によって、すくい取られた「形式」の同一性にとりあえず驚いてみせることから、本書はスタートするのだ。
では、こうして取り出された「物語」とはどういうものであったか。それは以下のようなものだ。

とにかく、どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故、男は発見の旅へと出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。儀式はある共同体内部での「権力の委譲」にかかわるものであり、そこで委譲されるべき権力と発見さるべき貴重品とは、深い関係があるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。協力者は、同性であるなら分身のような存在だし、異性であれば妹に似た血縁者である。二人の協力者は、どこかしら近親相姦的な愛が、倒錯的な関係を物語に導入し、純粋な恋愛の成立をはばみつつ。貴重品の発見へと向けてもろもろの妨害を乗りこえることになるだろう。(p.237)

ここまで還元されてしまうと、作家としてはきついのではないか、と思ってしまう。あとは、細部を入れ替えたりすれば、それなりの物語が出来てしまうのが面白い。この本では、大塚英志の『物語の体操』とはちがって、これを使って物語を創作するレッスンをするわけではないが、やっていることを二人とも同じなのだ。蓮實重彦の場合、この「形式」が批評の基準となり、この「物語」=「形式」からどのように距離をとっているのかが論じられることになるだろう。で、まあやはりというか村上春樹は×で、中上健次は○ということになるのであるが…。