凡庸であることの悲しさに同情する
◆蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』青土社
ようやく全部読み通すことができた。4日で読み終えたことになる。蓮實本にしては、難解な言い回しや独特の文体がが多用されていないので、読みやすい本のうちに入ると思う。でも、フランスでも今やあまり読まれず、忘れられた作家となっているマクシム・デュ・カンを800ページも超える大著でまとめるという力技に脱帽するしかない。これは、はっきり言ってすごい仕事だ。
この本は通常「批評」と呼ばれるジャンルに属すのだろうけど、わたしが読みながら感じたのは、これは「マクシム」という一人の架空の人物を主人公にした「小説」なのでは、ということだ。そのことは、たしかにこの本の「話者」も述べている。
ここまで書きつがれてきたのはあくまで『凡庸な芸術家の肖像』という物語にすぎず、作家研究という範疇をすくなからず逸脱している。何度もくり返してきたように、この物語の主人公マクシムは、マクシム・デュ・カンその人に決して似てはいない。(p.808)
やっぱり「物語」として読まないと楽しめない。マクシムの言説(「私は知っている、故に私は語ることができる」)と当時のジャーナリズムを中心とした言説(「私は知っている、あなたもそれを知っている、だから、そのことを語ろうではないか」)のズレ。言説の空間が変容しつつある時代に現れたマクシムは、自分自身の「凡庸」さに少しも気がつかず、いかにも自分は特権的な位置にいることを露とも疑わない。ゆえに、彼の書くものは、当時の人々にとってうさんくさいものとしか受け入れてもらえない。この「凡庸」な人物の悲しさ。読んでいてマクシムに同情してしまう。気の利いたことを述べたつもりが、じつに「凡庸」な言葉でしかなかったという、どうしようもない事実がマクシムの時代から続いている。そうだ、マクシムの姿は、もしかすると「わたしたち」の姿でもあるのだろう。もはや、私だけが知っていることを語るという特権的な語りの位置は存在しない。私もあなたも知っていることだけが、語るに値するものなのだ。そのことに気がつかなかったのが、この物語の主人公の「マクシム」に他ならない。ゆえに、彼は「ギュスターブ・フロベールの才能を欠いた友人」としてしか残っていないのだった、という本当に身も蓋もない悲しい物語。最後は、確実に泣ける。泣けるのだけど、一つだけ問題が…。
私が今回読んだ本は、初版本なのだけど、大事な箇所に誤字があった。それは、この物語の一番最後の文章である。
少なからぬ数の女性との恋愛を体験しながらも、生涯独身生活を貫いたマクシマには、もちろん、血縁の子孫はない。(p.810)
「マクシマ」って、肝心な箇所をミスしてどうする!ここを読んだとき、脱力してしまった。オチですべった芸人みたいだ。きっと、編集者もあまりのボリュームに最後は疲れてしまったのだろうなあ、なんて同情してみる。