勉強は本を読むに限る

飯田隆クリプキ日本放送出版協会
川村邦光『性家族の誕生』ちくま学芸文庫
クリプキ』、面白い。面白いけど、その面白さをどうやって説明したらよいのやら。とにかく、論じられている問題そのものが面白いのだけど。そもそも、どんな問題なのか、ということを本書では第2章をまるまる当てて説明するぐらいなので、私がおいそれと「かくかくしかじか」の問題なのだと要約するのはちょっと骨が折れる。やはり、これは本を直接読むしかない。というぐらい、クリプキが『ウィトゲンシュタインパラドックス』で考えた問題は哲学の歴史において独創的な問題であったということらしい。なにしろ「68+57=5」だ、というのだ。とうぜん、どうして?そうなるのか不思議に思う。だけど、以下のように言われるとそうなのかもと納得したくなる。

きみがこれまでしてきた計算はすべて、プラス関数ではなくクワス関数の計算だとみなしてわるい理由はひとつもない。つまり、きみが「+」でクワスのことを意味してきたのではないと考える理由はない。きみがこれまで「+」でクワスではなくプラスを意味してきたという証拠を挙げてごらん。

議論される問題自体が、すごいなあと感心してしまった。
それから、個人的にはウィトゲンシュタインの『哲学探求』の二〇一節が気になる。それは、こういう箇所。

われわれのパラドックスはこうであった。すなわち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜならば、どのような行為の仕方も規則と一致させることができるからである。その答えはこうであった。すなわち、どんな仕方も規則と一致させるようにできるのであれば、それと矛盾させることもできる。それゆえ、ここには一致も矛盾も存在しないことになる。
ここにある誤解のあることは、こう考えるときわれわれは解釈に次ぐ解釈を行っている点にすでに示されている。それはまるで、その解釈の背後に別の解釈を思いつくまではどの解釈も、少なくとも一瞬はわれわれを安心させるかのようである。これが示すことは、解釈ではないような規則の把握があるということであり、それは、規則のその都度の適用においてわれわれが「規則に従っている」とか「規則に違反している」と呼ぶもののなかに自然に現れるということである。
規則に従う行為はすべて解釈であると言いたくなる傾向があるのは、それゆえである。しかし、規則のある表現を他の表現で置き換えることだけを「解釈」と呼ぶべきなのである。

きょうはもう一冊読み終えた。『性家族の誕生』がそれだ。この本は、以前講談社から『セクシュアリティの近代』というタイトルで出ていた本だ。
扱われる時代は、主として19世紀の中頃から20世紀の初頭にかけて。論の下敷きになっているのはフーコー。最後の章の母性と戦争を論じたところは非常に退屈な議論だが、その意外はまあまあ読める。「性器」というものが、あらゆるセクシュアリティに関する問題の中心になったこと。「性」への関心が高まる一方で、家族のなかでは「性」が忌避されること、あたかも家族内では「性」なんて存在しないかのようになったこと。だから、性家族は聖家族でもあるということ。内容はそんなところだろうか。
ところで、平塚らいてうの母性論は最近評判が良くない。たいていの論者によって、批判される。要するに、らいてうは国家による母の保護の必要性を唱えていたので、下手すると国家に利用されてしまう可能性があったと批判されるわけなのだけど、当時としては女性の立場の弱さは明白で、国家の保護が必要だと唱えるのは悪くはなかったのになあと思う。国家の介入をどこまで許せるか、ということを考えてくれていたらなあと残念に思う。
このあたりの問題には詳しくないけど、らいてうというとすぐその母性論を批判をするというのが最近の通説になりつつあるので、あまのじゃくの私としてはその流れを批判できないものか、らいてうの母性論の擁護はできないものか、そんなことが気になってしまう。