雨が降るとやる気がなくなる

勉強する気がまったく起らず。不調。きょうは実際、何もせずに家でごろごろしていようかと思ったほど。雨も激しく降っていたし。とはいえ、それでは退屈なので、雨の中、学校へ。
校内を歩いていると、先生が教室のビデオの音声が出ないと慌てている。事情を聞いて、その教室に行ってみたが、結局どうしてビデオの音声が出ないのか原因が分からず。うーん、最近のAV機器の操作は難しい。というか、子どものころは、機械いじりが好きで、特にビデオやオーディオ機器をいじるのが大好きだったけど、今は年を取ったためかこの手の機器の操作の覚えが非常に悪くなった。それだけ頭が硬くなったのかもしれない。危ない、危ない。つねに頭が柔軟に働くようにメンテナンスをしておかないと…
現代思想』の6月号の特集は、「フェミニズムの最前線」というもの。ちなみに『ユリイカ』ほうは、鉄道の特集だったと思う*1
で、上野千鶴子「女性革命兵士という問題系」という論文を読む。「女性革命兵士」というのを見て、大塚英志の本なんか思い出したからだ。
ここでは、まず「国家暴力に女が動員できるならば、対抗暴力にも女は動員できるか?」という問いがあり、そこから「目的のためなら「暴力」は正当化されるか?」という困難な問いへ繋がっていくあたり、興味津々。なかなか面白い。

被害者になることを拒絶することをつうじて、加害者にもならないこと。いま・ここでの女の闘いは、これしかない。それは不服従ではあるが、無抵抗ではない。そしてこの世のどこからも逃げ場のない弱者にとっては、「服従が抵抗であり、抵抗が服従である」(スピヴァク)のような両義性のもとで、からくも生き延びることを意味する。

この箇所に、反応できたのは、ついこの前に『こんな夜更けにバナナかよ』を読んでいたからだろうなあ。要するに、これは女性だけに当てはまることではないのだろう。上野は「逃げよ、生き延びよ。」と文章を続けているが、たしかに「生き延びる」ことそのものが、一つの抵抗としてある。鹿野の生き方がそれを教えてくれる。
ところで、上野の引用にあるスピヴァクだが、「『弔鐘』−断片――書評−賃貸表」という論文が長原豊訳でこの特集号に載せられている。もちろん『弔鐘』はデリダの著作のことだが、この論文はめちゃくちゃ難しい。というか、ほとんど理解できない。半分ほど読んだけど、結局今のところ???ばかり。デリダスピヴァクも難解すぎて付いていけない…。

*1:長山靖生漱石の鉄道クロニクル」、武田信明「小説装置としての「鉄道」は面白い論文である