ちょっと説得力が足りなかった

井上章一『狂気と王権』紀伊国屋書店
「言説」分析研究とはどういうものなのかを、あらためて確認したいなあと思う今日この頃。そういえば、井上章一なんて、いかにも「言説」分析で、面白い本を書いていたなあと思い出し、これまで読んだことがなかった、この本を図書館で借りる。
とは言っても、実は、井上章一の著作はおそらく桂離宮についての本ぐらいしか読んでいなかったかも。
さて、本書を読み始めてみて感じたのは、どうも井上章一の本にしては歯切れが悪いということだ。資料分析の鋭さが感じられない。及び腰な物言いがひっかかる。肝心な主張部分が、どれも推測でしかない、と言う風に断りが入れられているのだ。
「あとがき」を読むと、正直に井上氏は「はずかしい」と書いている。何が恥ずかしいのか、と言うと、本書で分析に使った資料の大半が自分自身で発掘したものではなかったことだ。

私は、資料収集のオリジナリティを、これまでひそかにほこってきた。『霊柩車……』でも『美人論……』でも、それをささやかな自負にしてきたつもりである。だが、今回の本では、そういうわけにもいかないだろう。くりかえすが、くやしいし、また忸怩たる思いもする。(p.259)

たしかに、そんな感じがする。井上氏の本の面白さは、こんな資料があったのかという、ユニークな資料を引用してくるところにある。逆に言えば、井上氏の書くものが面白いというより、資料そのものが面白いのだ。ただし井上氏は、そうした資料の見つけ方と、その組み合わせ方が非常に長けているし、資料の扱い方のセンスを感じる。正直、うまいなあと。
だけど、本書は資料の組み合わせ方の巧さはたしかにあるものの、井上氏が主張したいことを、根拠づける資料がなかったということで、論自体の力や魅力は半減してしまった。つまり、一つの物語としてはとても魅力的な本ではあるが、評論としてはかなり説得力を欠くものであった。
「狂気」というものが、政治の力に左右される。正常/異常を分割する線は、自然に決まっているわけではない。時の政治的状況によって、ある人が「異常」と見なされ、あるいは「正常」であることを押しつけられる。本書は、こうしたポリティクスを分析した。資料から、仮説を立て、それを解き明かしていく過程を楽しむ本だと思う。