身体論を批判するには何が必要か

◆菅原和孝『ブッシュマンとして生きる』中公新書
著者は、南部アフリカ内陸部ボツワナの中央カラハリ動物保護区に住み込み、狩猟採集民グイの調査を長年している。
この本で重要な分析ワードは「身体」である。メルロ・ポンティの間身体性あたりを下敷きにしながら、身体の持つ「知」をあぶり出していく。ひいては、グイの身体の知は、我々の身体を批評する手がかりとなるだろう。

社会に生きながら、私たちが日々運用している「知識」、そして日々つきあっている「真理」を、厳密に等身大の視点から見つめなおすならば、グイと私たちは、完全に同じであるといわねばならない。(p.288)

このことが、私たちにとって飲み込み難いのは、「私たちの意味世界を秩序づける「真理の放射状構造」が、「自然科学」によって解明されてきた「客観的真理の体系」とぴったり重なり合っている」という私たちの思いこみのせいであるという。
「科学の言語」によって語られる世界と、「直接経験」による世界は異なる。しかし、「科学」によって表象される世界が唯一のものとして思いこんでしまう。

もしも、身体の直接経験によって確かめられる「中心的真理」以外の「文化的表象」を鵜のみにすることを、「呪術的思考」と呼ぶのであれば、私たちの生活のほうが、グイよりもずっと深く呪術的思考に侵されている。なぜなら、ほとんどの「科学的真理」なるものは、権威をおびた文化的表象として私たちのもとに「天下って」くるだけだからだ。(p.289)

もちろん著者は、いちいち自分の直接経験に照らして「天下って」くる命題を確かめなければいけない、と主張しているわけではない。「等身大の思想」が敵とするのは、「「真理」の装いをもって私たちをとりまく「人間」「社会」「世界」そして「歴史」に関する無数の「説明の図式」と「解釈の物語」である」という。

それらは究極的には「人間とはこのようにふるまうものである」という「法則」の図式と、「人間はこのようにふるまうべきである」という「規則」の物語とに帰着する。私たちの思考を身体の直接経験に根づかせることによって、こうした物語に忍びこむ「神話化」と「陳腐化」とを打ち砕かなければならない。(p.290)

こうしたことが、たとえばフーコーの言う「生−政治」に代表される「権力のネットワーク」との交渉を続けていく方法であるという。
「科学」によって表象される「世界」や、電子テクノロジーの発達によってヴァーチャル化する社会からは、私たちの「身体」に宿る潜在的な「知」と乖離してしまうということ。つまり、身体論は表象批判であり、「世界」から「身体」が疎外されていることを批判することなのだ。ここには、身体にこそ「私」を根拠づけるものがあるという思考が働いているのだろうと思う。疎外された身体を取り戻すこと。このような考えが前提としているもの何か?それが分かれば、身体論の批判が出来そうなのに。まだまだダメだなあ。もっと勉強しよう。