メタとかネタとかベタ、というのはすでにずっと前から問題になっていたんだ

渋澤龍彦『黒魔術の手帖』文春文庫
柄谷行人『定本柄谷行人集2■隠喩としての建築』岩波書店
『黒魔術の手帖』、裏の思想史と言えば良いのか、いやこれこそが西洋思想なのか。渋澤龍彦の知識にただ驚くばかり。魔術とかカバラとかタロット占いとかサバトとか錬金術etc...中世の人は、どうしてこんな怪しげな思想を持っていたのか、人間の不思議な面を見たような気がする。
『隠喩としての建築』は、メタつまり自己言及性が鍵となっている。言語もまた言語についての自己言及性であるから、言語について語ろうとするとメタにメタにメタ……とただループしていくだけ。とすると、このメタ地獄から抜け出るにはどうしたらよいのだろう、ということか。メタを断ち切るために、「外部」とか「他者」というのが問題にされる。
ところで、こうした柄谷行人の「外部」とか「他者」論は有名だし、私も面白いと思うのだけど、いまいちピンとこない。「外部」とはどこだろう?「他者」の他者性を維持したまま「他者」と対話することが可能なのか?とかいつもそんなことを考えてしまう。