<流動>と<定着>

今年になってから、ずっと安部公房の『砂の女』について考えている。この小説のキーワードは<流動>と<定着>だ。一つの読みの可能性としては、<定着>的な日常生活に嫌気がさして<流動>の生活(=非日常生活)に憧れるのだが、最終的に砂の世界に留まるという点で結局<定着>に戻ってしまった、というのがあるだろう。<流動>に憧れていた主人公が<定着>してしまう逆説的な結末が、まあ「安部公房」らしいというか。おそらくこの作品が今でも読んで面白いというのは、こんなところに魅力があるのではないか、とも思う。
ところで、今日は暖かくて、おまけになんとなく気分が勉強したくない、という感じなので、梅田まで出て本屋を歩き回っていた。で、ぶらぶらと書棚を見ていたら、紀行文というか放浪記というか、そんなエッセイが集まっている棚を見つけた。
こういった類の本というは、まさしく<流動>志向で、とにかく移動し続ける、旅をしつづけることで生活をしている人なんだなあと。人は、<定着>よりも<流動>に魅力を感じるのだろう。仕事に追われる日常が<定着>で、そこから抜け出して<流動>に向かいたい欲望が芽生える。その時、<定着>は否定的に語られ、<流動>が美しく描かれるのだろう。
でも、『砂の女』を読んでいると本当に<流動>的なものが良いのかどうか分からなくなる。<定着>と<流動>、どちらが良いのか分からなくなるのだ。<定着>が、それほど嫌われるものかといえばそうでもないのだろう。ともすれば、<流動>というのは魅力的に語られがちだけど、<定着>だって何か良いことがあるのではないか。そうでないと、わざわざ民族的問題を起こしてまでも「国家」を作ろうとするエネルギーは生じないだろう。私たちは、<流動>も<定着>も両方欲しがっているのではないだろうか。