その2

今週末といえば、楽しみに待っていたカール・テオ・ドライヤー特集が始まる。ドライヤーには、有名な作品が幾つかあるのだけれど、しばしば映画史の本に登場するのは、やはり『裁かるるジャンヌ』だろう。今回の上映では、最低でもこの作品だけは見ておこうと思っている。

ところで、『裁かるるジャンヌ』といえば、ゴダールの『女と男のいる舗道』の中で、アンナ・カリーナがこの映画を見て泣くシーンが有名だと言われるが、同じくこの『裁かるるジャンヌ』に強く心を揺さぶられる女性が日本にもいる。それは徳田秋声の『縮図』のヒロイン銀子である。

「銀子」という名前は、おそらく銀幕の銀ではないかと思われるほど、この主人公の銀子は映画が好きな女性である。そんな銀子がある時、活動写真の看板を見ていると、その看板は『裁かるるジャンヌ』であった。そして、その映画を銀子は見る。

裁かるるジャンヌ」を見て来た一夜、ちょうどそれが自分と同じ年ごろの村の娘の、世の常ならぬ崇高な姿であるだけに、銀子は異常な衝動を感じ、感激に胸が一杯になっていた。強い信仰もなく、激しい愛国心もない自分には、とても及びもつかないことながら、生来の自分にも何かそれと一味の清らかさ雄々しさがあったように思われ、ジャンヌと見た途端に、それが喚び覚まされるような気持ちで、のろわしい現実の自身と環境にすっかりいや気が差してしまうのだった。(引用は『縮図』岩波文庫、152頁)

小説は、銀子の半生を回想するのであるが、その人生は貧しい生活の中、男たちに翻弄されながらも、芸者をしながら強く生きているというものだ。ここで注目したいのは、銀子もまた芸者をしているという点。つまり自分の身を売って生活をしているという点である。これは、ゴダールの『女と男のいる舗道』の女性と共通するだろう。

このあたりが、比較文学研究の面白いところで、『裁かるるジャンヌ』という一本の映画を介して、一見すると全く結びつかないような二つの作品に思わぬ共通点が見えてくる。この点に注目して、『縮図』なり『女と男のいる舗道』を論じることができないか、そんなことを考えるのが比較文学の研究者だろう。

女が身を売ること、そしてその女性が『裁かるるジャンヌ』に心を揺さぶられるということ、一体これらにどんな意味があるのだろうか。また、この点を踏まえて、それぞれの作品にどんな解釈を与えることができるのだろうか。