◆『座頭市
監督・脚本・編集:北野武
音楽:鈴木慶一
出演:ビートたけし浅野忠信ガダルカナル・タカ
HP:http://www.office-kitano.co.jp/zatoichi/

面白い。一言で言うなら、「ポストモダン」な座頭市だ。これまでの時代劇の引用がごちゃごちゃのつなぎ合わされた作品。そして、それはみなパロディ化してしまっている。最後に盲目という設定の市が、実は目が見えるという場面。座頭市という存在そのものが骨抜きにされ、パロディとしてしか存在できない。思えば、勝新太郎座頭市というのが、様式的に完成されてしまった感があるので、この映画のようにあとはポストモダン的に作るしか方法はないのだろう。時代劇なのに、金髪の「市」。タップダンスを踊る民衆。時代考証もなにもない。あらゆる映画的な要素が詰まっている映画である。

これは、わざわざ持ち出すまでもなく、バフチンのカーニバル的な要素もあることを意味する。それが典型的に現れているのはもちろんラストの祭りのシーンである。ここで、タップダンスが踊られる。一方で、市は最後の敵、盗賊の親分を斬る。死があり、と同時にカーニバル的な祝祭の雰囲気が民衆を、町を再生させるだろう。そもそも農民の生命力を描いたのは、映画史的に振り返ればもちろん黒澤明である。黒澤明の時代劇といえば、派手な血しぶきであったことも思い出すべきである。

主題論的に見れば、水というのも一つの説話論的で、これは当然死と結びつく。水が死を想起させ、死を呼び寄せる。ここに水の物質的想像力がある。水との関連で、「橋」というのも何か意味があるのかチェックしていたが、私にはそれほど意味が見いだせなかった。勝新太郎座頭市で、橋というのが死と生、すなわちエロスとタナトスを表象する境界のような役割を持っていたこともあったのだが…。

それから、あとは思いつくままに書いておくと、時代劇の殺陣とダンスの結びつきというのは、もともと殺陣がダンス的要素を持ちやすい、ということを思い出す。日本映画の中では、殺陣のシーンそのものがまるでダンスを踊っているかのように演じられることが多い。この『座頭市』が、ミュージカル映画風であると感じたのだが、これは時代劇の正統な方法でもあると言えよう。

復讐をねらう姉妹(弟)というのも、ポストモダン的になっていると言えるかもしれない。時代劇というのは、どちらかといえば闘う男と、耐える女、(たとえば、浅野忠信演じる服部とその妻の関係のような)といった、ある意味ジェンダーがはっきりしたジャンルだと思う。しかし、この弟は異性装をして女性として生活しており、ジェンダーの攪乱があるのではないか。時代劇にこのような要素を取り入れたのは、私は今のところ知らない。

というわけで、思いつくままに書き出してみたが、やっぱり「ポストモダン」な時代劇、と言うのが一番相応しい。時代劇というジャンルが振るわなくなって久しいが、はたして時代劇は甦ることができるのか、それとももう製作することは不可能なのか、この映画は一つの試金石になるのではないだろうか。