関良徳『フーコーの権力論と自由論 その政治哲学的構成』

◆関良徳『フーコーの権力論と自由論 その政治哲学的構成』勁草書房
ひさしぶりに読み返してみたけれど、やっぱりフーコーの権力論に関してよくまとまった本で、すごく勉強になる。この本を読みながら感じたのは、フーコーの権力論とバフチンの対話理論には近いものがあるのか、ということ。フーコーの権力論が権力関係ということで、「関係」を強調していることが重要。「関係」というのは、フーコーはしばしば権力をゲームにたとえているので、おそらくスポーツの試合などをイメージすると理解しやすいのだと思う。たとえば、サッカーのゲームでは、各選手はそれぞれフィールド上において自分が次に何をするか自分自身で判断して動き回るはずだ。誰かの命令に従って機械的にしか動けない選手よりも、自律性のある選手のほうが推奨されるはず。
しかし、選手は自由に動けるといってもゲームなので、相手チームの選手の動きによって、自分の攻め方も変化するだろう。相手選手と自分との関係において、選手はどう動くのか決定しているはずだ。もちろん、こちらの動き方次第で、相手選手の動き方も変化する。こうしたせめぎ合い、この両者の間に働く力が、おそらく権力というものなのではないだろうか、と私はイメージしている。かつての権力イメージは、王様のような存在が、権力を所持していて一方的に臣下を抑圧するようなものであった。しかし、権力というのは、特定のものが所持しているものではないという。
バフチンの対話理論も、対話という以上、関係性が重要だ。ある発言に対し応答する。そしてさらにその応答に対し応答を返すといった、どちらかが一方を押さえつけて一方的に語るのではない。対話には常に応答する自由がある。フーコーの権力関係でも、抵抗する自由というものがあるという。両者の理論はともに、抵抗する自由を重要視しているだろう。と、こんなことを想像してみた。