子安宣邦『「宣長問題」とは何か』

子安宣邦『「宣長問題」とは何か』ちくま学芸文庫 ASIN:4480086145
国学的言説の特質とは何か、という問題。で、それは、

近代に新たな神話を作り出すような『古事記』をめぐる語りとは、すでにくりかえしのべてきたように宣長によってなされたその成立の<再語り>なのである。(p.116)

ということによって生まれ、近代の言説はこの本居宣長の<私説>を増幅させたものだという。面白い分析。要するに、宣長の『古事記伝』というのは、言説の再編成したにすぎない。
で、本居宣長の方法、およびその国学の系列の方法を<私説>と呼ぶのは、宣長の内側の入り込み宣長にあたかも語らせるように「宣長を読む」という行為から生まれる宣長像が、次のようなものだからだ。

すなわち、その像とは宣長という対象の内側に向かって読み込んでいくような<読み手>において再構成された像ではないか。そうだとすれば、その対象の像として刻みこまれているのは、ほかならぬ<読み手>の自己像ではないか。(p.202)

こうした批判は鋭い。これは、実証主義という客観的な<読み>を目指したアカデミックな研究あるいは<国学→国文学>研究の批判になる。文学研究を反省しないといけない。研究史の批判は次のようにも書かれている。

ところで思想史研究上において従来、ある事態の出現を当該思想家における「内在的理由」を尋ねることで、その事態についての何かが説明されたとされている。しかしそのことで説明されるのは、当該思想家にあってその事態が出現したことのゆえんなり、由来だけである。その事態がいかなる形で、時代にいかなる波紋をもたらす形で出現したかを、それは明らかにすることはない。(p.185)

文学研究も、なぜこの作品が書かれたか「内在的理由」を問う研究が多いなあと思う。その出現の波紋まで問う研究は珍しい。これも反省すべき点だろう。