昨日の日記でとりあげた『大人のための文章法』にしろ、戸田山和久『論文の教室』にしろ、論文には型がある、はじめはそれを徹底して模倣せよ、という主張がある。たしかに、これは一理あると思う。私自身、最近は文章の型を身につけようと意識している。良い論文は、ひそかに書き方を模倣してみようと。たしか斎藤孝あたりも、音読を薦めていたのは、型を身につけるためだったと思う。模倣して、基本的な型を身につけてから、はじめて自分のオリジナルを考えることが可能なのだろう。

「キレる少年、相次ぎ虐待 松山と名古屋 「異物」として攻撃?」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031124-00000091-kyt-kin
このニュースを読んでいたら、小田晋

「たとえ子どもと血縁関係がなかったとしても父親の役割を果たさなければいけないが、最近は親の役割とは何かを学ぶ場所が社会にないため、青少年らは(事件の少年のように)本能的な行動に出がちだ」

と述べている。気になったのは、「親の役割とは何かを学ぶ」ということ。どうして、社会のなかに学ぶ場所が無くなってしまったのか。そもそも「親の役割」はどうやって学べるのか。「親の役割」とは何か。「親」とは何か。考えれば、たくさん問題が浮かび上がってくる。このあたり解決するのは難しそうだ。
それから、本能的な行動に出てしまうのはどうしてだろう。要するに「動物化」ということなのだろうけど、そもそも自分自身で自分をコントロール出来ずに、本能のままに行動してしまうのはなぜか。思い切ってこじつけてみれば、模倣を通して身体に型を身につけていないからではないか。ある種の型の通りに身体をコントロールする、ということができない。型がないから、無秩序に行動するしかないのかもしれない。まあ暴論だと思うが、こんなことを思ってみたりする。
そもそも「型」を身につける、というのは拘束されているようで、自由な発想を奪っているようなイメージがある。しかし、人間なんて所詮なんらかの型に嵌められて生きているのではないか。何のイデオロギーに犯されていない人間なんていないだろう。比喩的に言えば、人間はみな汚れている、まっさらな純粋な人間などいないのだろう。大切なのは、自分がどのような「型」において主体化しているかを認識することで、それは他者との比較において気づくことができる。比較という方法が有効なのは、自明の前提をあぶり出してくれるからだ。自分自身では見えなかった盲点が、他者との比較をすることによって光を当てることができるだろう。話がずれてしまったが、言いたかったのは、模倣すること、型を身につけることが必要であるということだ。