マーサ・A・ファインマン(上野千鶴子監訳、速水葉子、穐田信子訳)『家族、積みすぎた方舟』

◆マーサ・A・ファインマン上野千鶴子監訳、速水葉子、穐田信子訳)『家族、積みすぎた方舟』学陽書房
なかなかラディカルな主張をする本である。ここでは、ある特定の家族形態が特権化されていることを批判している。その家族形態とは、父−母−子という核家族だ。こういう家族形態を「伝統家族」とか「自然な」家族と言っていて、(もちろん「伝統家族」という言い方は問題あるのだが)法にしろ政策にしろ、この核家族を規範として成り立っているという。

現在の規範体系は、特定の家族を逸脱と定義する。そうした家族は特殊な規制や管理に縛られ、あるいはスティグマをおされ、そしてますます懲罰的性格をおびてきた特別の支援措置を受けるしくみになっている。「公的」家族は、公共政策論の中で不当に非難され、理想的なモデルに近づくよう、「奨励策」を与えられる。こうした公的家族は、福祉政策に始まり虐待や遺棄に対処する法律にいたるまで、さまざまな法的措置による規制の対象となる。それに対して「私的」家族は、一連の緩やかで支援的な規制を用意されている。

ここで、「公的」家族とされ、不当な非難にさらされる家族とは、シングルマザーのことだ。つまり、父親の欠けた家族は「逸脱」と見なされるだろう。ようするに依然として家父長制イデオロギーが根強いのだ。
著者がラディカルだというのは、もう核家族を理想モデルにするのはやめにして、「母子」単位の家族とすることを提示している。法的な婚姻というのもやめてしまえばよいのではないか、とも言っている。成人同士の合意に基づく関係さえあれば、それ以上国家が介入する必要はない、と。この意見は、なかなか興味深いものがある。一度、考えてみるのも悪くないだろうと思う。重要なのは、国家なり、法なりによって、家族の形に影響を及ぼすこと自体を疑問にしているのかもしれない。ある特定の家族の形態をモデル化してしまうと、それに逸脱する形態は必ず生じるわけで、その時逸脱した家族は、問題視されてしまうだろう。このような事態を避けることを考えなければならないはずだ。