杭州、西湖(2)

芥川が宿泊した新新ホテルの目の前にあるのが「弧山」。芥川はここを散策している。

 画舫は錦帯橋をくぐり抜けると、すぐに進路を右に取った。右は即ち弧山である。これも西湖十景の中の、平湖の秋月と称するのは、この辺の景色だと教えられたが。晩春の午前では致し方がない。

たしかに、平湖秋月は実際に行ってみると、それほど良いところではない。西湖全体が見渡せる場所というところ。

其処を一しきり通り過ぎた所に、不思議にも品の好い三層楼があった。水に臨んだ門も好ければ、左右に並んだ石獅も美しい。これは何者の住居かと思ったら、乾隆帝の行宮の址だと云う、評判の高い文瀾閣だった。

孤山には公園があり、そこに入ると、芥川の言う通りに大きな建物があった。壁に囲まれていて、その建物には近づけなかった。それが文瀾閣だった。

芥川も中には入っていない。その後、芥川は「俞楼」へ行った。

 俞楼は俞曲園の別荘である。規模は如何にもこせついているが、満更悪い住居でもない。

俞曲園は清の時代の人。詳しいことは知らないが、芥川も会った章炳麟の先生ということになるのかな。

 その次に蘇小小の墓を見た。蘇小小は銭塘の名妓である。何しろ芸者と云う代わりに、その後は蘇小と称える位だから、墓も古来評判が高い。処が今詣でて見ると、この唐代の美人の墓は、瓦葺きの屋根をかけた、漆喰か何か塗ったらしい、詩的でも何でもない土饅頭だった。殊に墓のあるあたりは、西冷橋の橋普請の為に、荒され放題されていたから、愈索漠を極めている。(略)おまけに西冷橋畔の路には、支那の中学生が二三人、排日の歌か何かうたっている。

蘇小小の墓、ここは何度も通っていたがまったく気がつかなかった。芥川の文章を読んで、はじめてここに墓があるのを知った。橋のすぐわきに、ちょこんとあって、橋の装飾か何かかと思っていた。芥川は「土饅頭」と書いている。さすがに現在は「土饅頭」ではないが、似たようなものだ。芥川はその後、近くにある「秋瑾」の墓を見て、岳飛の廟に向かう。

ところで、芥川はこのあたりからだんだん西湖に不満を持ち始めてくる。中国人の自然観と日本人の自然観の違い、ということも原因の一つなのかもしれないが、一番大きな理由は、西湖が「俗化」していることであった。

湖岸至る所に建てられた、赤と鼠二色の、俗悪恐るべき煉瓦建の為に、垂死の病根を与えられた。いや、独り西湖ばかりじゃない。この二色の煉瓦建は、殆ど大きい南京虫のように、古蹟と云わず名所と云わず江南一帯に蔓った結果、悉風景を破壊している。(略)しかもこう云う西湖の俗化は、益盛になる傾向もないではない。(略)しかし私は領事どころか、浙江の督軍に任命されても、こんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでいたい。……

杭州の街には、1920年代に建てられた西洋風の建築物がある。歴史的建築物として保存されているのだが、これらの建物を見ると芥川の言うようにたいてい「鼠色」だ。煉瓦はあまり見かけない。芥川が中国に来た1920年代は、都市が西洋化しつつあったのだろう。古い町に容赦なく西洋が入ってくる。伝統と最先端がごちゃごちゃに入り交じった都市。杭州は現在もそんな感じ。