自分と同じかも

小熊英二単一民族神話の起源』新曜社
◆加藤郁乎編『吉田一穂詩集』岩波文庫
ポール・ヴァレリームッシュー・テスト』岩波文庫
このところ研究書ばかり読んでいて、小説だの詩だのをまったく読んでいなかった。こんなことでは、研究分野は「日本文学です」と言うことが出来ない。週末ぐらいは、小説を読みふけっていたい。やはり、いろいろな文学に親しむことが、研究の第一歩だ。研究書を読むことは、あくまで二次的な作業に過ぎない。本末転倒してはいけない。
さて、昨日一日かけて『単一民族神話の起源』を読んだ。書き方は、『<民主>と<愛国>』と同じだった。このデビュー作に小熊氏のすべて現れているということだろうか。
日本は単一民族だから云々、という言葉は今でも誰かが言いそうなものだけど、果たしてこの言い方がいつ頃登場したのか。本書のタイトルを見るに、このような問題意識を想像したのだけど、本書の前半において明らかとなったのは、予想とは反して、明治の日本では、日本は混合民族だ、単一民族ではないのだ、という言い方が主流をなしていたことだ。
単一民族だ、という言い方がまったく無かったわけではないが、マイナーな考え方だった。こうした背景に、日本が、近隣諸国に進出し、領土が膨張していったことがある。異なる民族、つまり日本にとっての他者が、無視できない存在であったのだ。こうした他者を内に取りこむとき、混合民族説というのはすごく有効であった。
一方、日本は単一民族だ、という考えは、戦後になってから主流となって六〇年代ごろから頻繁に言われるようになったらしい。比較的最近の言い方だと知り驚いた。日本は単一民族だから、他者との交流がなかったから、均質な共同体だから、ナアナアで分かり合って議論が苦手なんだよ、などといって日本や日本人を批判する日本論などもきっとこのあたりから生じるのだろうと私は思う。こういう言い方って、私自身けっこう当然のように言ってしまうかも…と反省してみる。気をつけないといけない。
個人的に興味を引いたのは、柳田国男における「シマ」の問題。柳田は、戦前では珍しいほうの単一民族側の考えを持っていた人だが、柳田にとって「シマ」は以下のようなものだったという。

ある意味で柳田には、排外性とある種の平和性が混在していた。異民族の影がなく、均質な文化で全員が統合され、農業で自給自足し、それゆえ闘争や征服、異文化摩擦といった<面倒ごと>がおこらないせまい世界。異郷での疎外感に疲れた心が、平安を求めて思い描くふるさとの幻影。それがムラであり、シマであった。(p.233)

ユートピアというのは、たいていこんな思想なのでは、と思う。この分析は面白い。自分でも柳田国男を読んでみよう。それから、最近文庫になった『南島イデオロギーの発生』も読んでみなくては。
『吉田一穂詩集』で、はじめて吉田一穂という詩人の存在を知る。たまたま図書館で新着図書のなかにあったので、なんの考えもなく借りて読んでみたが、漢字が多く使われた詩などを見ると、象徴主義の人なのかなあと思う。早稲田に入学していて、横光利一と同級生らしい。
読みながら感じたことは、この詩集は象徴主義っぽいけど色っぽさというか批評風に言うと官能性が足りないような気がする。北海道出身の人なのだけど、やはり冷たさ、緊張感、鋭さ、という印象を持つ。あとプロレタリア文学っぽい要素も混じっているようだ。全体的に、私にとっては解釈するのが難しい詩が多い。
ムッシュー・テスト』、はじめて読んだ。有名な作品で、題名はよく見かけていたし、文芸批評でもしばしば言及されることの多い「ムッシュー・テスト」。以前から、この本は読んでおかねばと思っていた。そして、とうとう読んでみたのだが…これまた難しい。どうも私は、詩人が書く文章に弱い。この弱点をなんとか克服したいものだ。
というわけで、この小説を解釈することに挫折したのだけど、この「ムッシュー・テスト」はまるで自分のことのようだ、と不遜にも考えてしまった。

「昔は――もう二十年にもなる――だれか他のひとが水準以上のことをなしとげてしまう、それはわたしが個人として敗北したことだった。以前は、どこを見ても、わたしの考えがいつのまにか盗まれたものだとしか思えなかった!馬鹿げてましたね!……自分がひとにどう映るかなんてどうでもいいのに、それが駄目とはね!想像のうえで他人と戦うとき、われわれは自分自身のイメージを過大評価するか過小評価する、どちらかなんだ!……」
彼は咳をした。彼は呟いた。「ひとりの人間に何ができるか?……ひとりの人間に何ができるかというんです!……」(p.34)

そうそう、これは私自身がいつも考えてしまうことではないか!と勝手に思いこむ。もちろん「ムッシュー・テスト」やヴァレリーのような知性と私の知性など比べものにならないけれど。でも、きっと私は「ムッシュー・テスト」と同じ事をぐるぐると考えているに違いないと。ちょっと親近感を覚える。なんか、一昔前の文学青年のような気持ちだ。また読み直そう。