論理も大切、だけど曖昧さも魅力

武田徹『調べる、伝える、魅せる!』中公新書ラクレ
一気に読了。けっこう楽しめた。一種の文章読本ともいえる「執筆編」の章は、とても参考になる。
「が」の使い方なんて、文章を書くときには本当に気をつけておきたい。「が」という語の持つ多様性は、もとは清水幾太郎が指摘していたことで、「が」という語は、どんな文章同士でも繋ぐことが出来てしまう便利だけど困った語のことだ。この接続詞の「が」で繋がれた前後の文章関係をよく考えれば、論理的な文章が書けるだろうというもの。
しかし、武田徹は、こうした日本語の文章にしばしば見られる論理の曖昧さを指摘しつつも、一方で論理偏重だけでも良くないことも述べている。このあたりに、共感してしまった。曖昧さに欠けるというのも、日本語の一つの特徴だといえる。曖昧に書くことに意味がある時も起こりえるだろう。だから、論理至上主義だけでもまた困ったものである。
あと、この本を読んで、私がいかに傲慢であったか気がついた。それはこんな一節から。

科学ジャーナリストなど、その道の専門家に話を聞くことが多いジャーナリストが陥りがちなことだが、取材相手である専門家と同じ知識量を持つことは不可能である。持てると僅かでも考えた時点でそれは専門家への冒涜にすらなろう。長い時間かけて研究を蓄積してきた専門家に、にわか仕込みで勝てるはずがないのだ。(p.60)

ある程度専門的知識も勉強することも必要だ。しかし専門家と全く同じ知識を得る必要なない。専門家と異なる知識の部分もまた大切だと、述べていた。
ああ…いけない、思わず専門家と同じ知識を獲得しようと思ってしまった。たしかに、どの道でも専門家と呼ばれる人は、それなりに長い時間を掛けて知識を得てきている。その知識に、簡単に追いつけると思う方が変だった。そんな風に思った自分が恥ずかしい。