ことば、このやっかいなもの

田中克彦『ことばとは何か』ちくま新書
ことばは自然なものだろうか、それとも人間によって作られた人口のものだろうか。このような問いが、言語学の歴史をたどりながら論じられていく。ことばは、人間の手ではどうにもすることができないものなのか。いや、人は言葉を変化させてきたのではないか。
ことばを自然とみなして、ことばをまるで自然科学のように研究したのが19世紀の言語学だ。ここでは、言語が人間の手ではどうにもならない自然のような自立した存在としてみなされ、それゆえに言語を研究することは自然科学と同様に科学的であったのだ。しかしながら、これは言語から人間を抜き取ることを意味する。
一方で、言語は人間の作ったものであるという考えも現れる。人間がある意図を持って、あるいはある目的を持って言語を作ったのであるならば、言語がなぜそうなっているのかについて、人間は説明することが可能だ(cf.コセリウ)。
ことばが自然か人工かという問題は、答えるのが相当困難なものだ。ことばは自然でもあるし、人工でもあり得る。どちらでもないし、どちらでもあり得る。まさに「言語はほとんどすべての点にわたって、矛盾しあう二つの面をもっている(p.170)」と言えるだろう。
さて、著者はこんなことばに対しどんな考えを持っているのか。それは、「自然に近い文化である」というものだ。

文化とは人間が作ったものである。したがってそれは人工のものであり、自然物ではない。ところが、言語は文化ではあるが、より自然に近い文化である。それは、文化がさまざまに加工でき、変形できるのに対し、言語は草木がそうであるように、加工したり変形したりすることのいちじるしく困難なものであることからわかる。(p.160)

こんなふうなことを述べながら、私が言いたいのは次のことである。つまり、ことばは文化ではあるが、より自然に近い文化であると、(p.166)

自然のように説明の困難な部分もあるし、一方で人間の意図を持って作られる部分もことばにはある。言語学が取り組む問題は、おそらく後者のほうなのだろう。たとえば、言語と民族の関係。ここには、政治という問題が絡んでくる。このあたりは、第三章でさまざまな具体的事例をもって説明されている。とくにモンゴルの北に位置するブリヤートにおけるブリヤート語とモンゴル語の問題は政治と言語の関係を鋭く抉り出していて興味深い。(cf.ルディ・ケラー)。
自然のように説明の困難な部分もあるし、一方で人間の意図を持って作られる部分もことばにはある。言語学が取り組む問題は、おそらく後者のほうなのだろう。たとえば、言語と民族の関係。ここには、政治という問題が絡んでくる。このあたりは、第三章でさまざまな具体的事例をもって説明されている。とくにモンゴルの北に位置するブリヤートにおけるブリヤート語とモンゴル語の問題は政治と言語の関係を鋭く抉り出していて興味深い。
言語と民族の問題は、近年盛んになっているが、たとえ民族が幻想の共同体だとしても、ことばはどうなのか?と問いかける「はしがき」は重要だと思う。

民族は虚構だとしよう。では、ことばは虚構なのだろうか。民族はやめようと思えば、二、三日かけて決心すればやめられるかもしれないが、ことばは誰にもやめられないのである。民族は技術ではないが、ことばは技術である。しかも、簡単にとりかえたり一時的にやめたりすることのできない相当やっかいな技術である。(p.13)

ことばというものが、いかにやっかいなものであるか、これは本書を通じて私が感じたことだ。しかし、やっかいだからといって、ことばを捨て去るわけにはいかない。だから、私たちはことばについて考えざるを得ないのである。