大屋雄裕『自由とは何か――監視社会と「個人」の消滅』

大屋雄裕『自由とは何か――監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、2007年9月
「自由な個人」をめぐって議論が展開される。
第1章と第2章は、これまでの自由論を振り返り、批判的検討を加えていく。このあたりは、多くの文献や具体例が引き出されている。割と手堅い議論が進行していくので、専門的知識がないと、読み進めるのに苦労するかもしれない。
本書はやはり第3章が面白い。第3章は、「責任と自由」という章のタイトル。ここでは、「自由な個人」と責任の関係が問われている。簡単に言えば、自分がどれほど意識的に行為を行っているかどうか、それは誰にも(自分自身でさえ)よくわからないが、ともかく、生じた帰結の責任を負う時、はじめて「私」が「自由な個人」となる。自由と責任の因果関係が逆転していることを、ここで論じている。
そして、著者は、個人なるものが「擬制」つまりフィクションでしかないとしても、今現在まだ「人々が自分のことを自律的な個人であると信じていることには相当の意味があるのではないか」(p.204)と述べている。

 責任を引き受けることを通じて自らを主体であると主張すること、責任を担いうる個人だと想定することを通じて相手の人格を想定すること。これらの構造に支えられた近代社会のシステムにはまだ尊重すべき価値がある、自由な個人とはいまだなお信ずるに足るフィクションであるとなお主張しておきたいのである。(p.205)

ここは同意できる。近代のシステムについては、もちろん様々な批判がなされているし、耐用年数も過ぎているのではと言われる。だが、そう簡単に捨て去るべきものでもないだろうと、いまだ有効なものも残っているのではないかと、そんなことを時々思うようになった。たとえば、文学作品において、「作者」なるものがフィクションだとしても、ではもう「作者」はいらないとはならない。やはり「作者」なる概念は、文学の読解において有効に働くときがあるのではないか。
「国家」や「近代的自我」について再考してみたい。

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)