吉村公三郎『千羽鶴』
◆『千羽鶴』監督:吉村公三郎/大映/1953年/111分
この物語の原作は川端康成の『千羽鶴』(ISBN:4101001235)。脚本が吉村公三郎と組む新藤兼人。撮影は宮川一夫。出演は、木暮実千代、乙羽信子、森雅之、杉村春子。
私は原作の川端の小説がとても好きなので、期待していた映画だったが、残念ながら良い映画とは思えない。杉村春子はたしかに上手い演技をしているし、森雅之も悪くない。しかし、川端の小説が持つ独特のエロチシズム、艶めかしさがほとんど映画には出ていないのだ。この小説で重要な役目を果たしていた志野茶碗が、映画ではあまり効果的に使われていない。志野茶碗の艶めかしいイメージが印象的な小説だったが、これを映像で表現するのは難しいのだろうか。そもそも川端康成の小説の映画化が難しいのかもしれない。
映画の特徴は、杉村春子が演じる「栗本」がほとんどヒロインと言っても良いぐらい、物語の中心に存在していることだ。したがって、太田夫人とその娘の文子と主人公の菊治の関係が脇に追いやられているように感じた。菊治になにかと世話を焼き、菊治をはじめ菊治の家のお手伝いさんからも疎ましく思われている栗本の心理が、映画の中心的な主題となっていた。
栗本は、菊治の父を太田夫人に奪われたという意識があり、つまり太田夫人への嫉妬が彼女の行為の源泉となっているが、それにしても菊治に監視しているかのように始終付きまとい、いろいろと世話を焼くのはなぜだろう。太田夫人が、菊治と彼の父を同一化してしまい、菊治を通じて幻想の「父」を追い求めてしまうように、栗本もまた菊治をかつて愛していた菊治の父と重ねているのだろうか。そうすると、なんだか菊治という男は可哀想に思えてくる。これでは、ただ単に父の姿を反映させている鏡にすぎない。菊治が愛されるというより、菊治は単なる媒介に過ぎずに、結局は彼の父が女たちに依然として愛されつづけているということになる。これなら、菊治のほうが「自分の存在って一体…」と思い悩んでも良さそうな気がする。しかし、菊治には何の悩みもなさそうなのだ。大丈夫なのか、菊治…。