樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』
◆樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』岩波文庫、1999年5月
映画『にごりえ』を見るために再読する。一葉は、やっぱり素晴らしい。「雅俗折衷体」という文体は、現在の読者からすると、必ずしも読みやすい文体ではないが(なので、最近一葉の作品の現代語訳が出ているのだろう)、それでも文体のリズムを掴めばけっこう心地よく読める。現代語訳も気になるし読んでみたいのだが、一葉の独特の語りで読むのは面白い。
二つの作品は、人物の関係がほぼ同一のように思われる。両作品とも、ヒロイン(お力と美登利)を中心に、訳ありの関係がある男(源七と信如)と、ヒロインの打ち明け話を聞く役割の男(結城朝之介と正太)という三角関係が物語を構成している。
そして、物語は結局、ヒロインが仲の良い男性(朝之介と正太)に、その悲痛な胸の内を告白するのだが、その内面の声は男たちに理解されることなく、それによってヒロインは失望する。そして、訳ありの関係の男性(源七と信如)との間で不幸な結果へと至る――。
こうしたヒロインの声に「口惜しさ」の構造を読んだり、あるいはフェミニズム的な読解では、女性の声の抑圧の構造を見出すのが、一葉研究におけるもっぱらのスタンダードになるのだろうか。
さて、両作品とも良かったけれど、私が強いてどちらかを選ぶなら「たけくらべ」だろうか。美登利と信如の微妙な関係。これは読み応えがある。雨の降る中、信如の下駄の鼻緒が切れた場面などは近代文学の中でも屈指の名場面ではなかろうか。鼻緒が切れて難渋している信如に気が付いた美登利が、「紅入り友仙」のボロ切れを投げ渡すけれど、信如はそれを拾わず眺めているだけ。「信如は今ぞ淋しう見かへれば紅入り友仙の雨にぬれて紅葉の形のうるはしきが我が足ちかく散りぼひたる、そゞろに床しき思ひは有れども、手に取りあぐる事をもせず空しう眺めて憂き思ひあり。(p.94)」
その直後、信如は仲間の長吉と出会い、長吉の履き物と下駄を交換して助けてもらう。そして二人は別れる。
信如は田町の姉のもとへ、長吉は我家の方へと行き別れるに思ひの止まる紅入りの友仙は可憐しき姿を空しく格子門の外にと止めぬ。(p.95)
紅色だけに、視覚的に強い印象を与える。雨の中、外に置きっぱなしとなった「紅入り友仙」の情景が目に浮かぶ。こういう場面を読者は映像的と言うのではないだろうか。何度読んでも名場面である。
「映像的」な場面だと述べたが、この「たけくらべ」には当時の映像メディアが言及されている。一つは「幻燈」であり、もう一つは「写真」だ。
夏まつりで子どもたちは何をやろうかと、正太と美登利が話をしている場面がある。ここで、正太は「幻燈」をやろうと提案している。
田中の正太は可愛らしい眼をぐるぐると動かして、幻燈にしないか、幻燈に、己れの処にも少しは有るし、足りないのを美登利さんに買つて貰つて、筆やの店で行らうでは無いか、己れが映し人で横町の三五郎に口上を言はせよう、美登利さん夫れにしないかと言へば、(p.58)
明治のころ、映画が登場する以前は、幻燈に人気があった。子どもの頃の「幻燈」体験を、たしか寺田寅彦が書いていた。寅彦は、自分で幻燈の装置を作ったのではなかったか。
結局、まつりでは例の騒動があり「幻燈」の上映はできなかった。まつりの翌日、なぜか美登利は学校を休むようになる。そこに正太がやってきて、美登利とまつりの日のことや自分たちのことを話す。その会話のなかで、美登利は正太の祭の時の姿を褒め、いっぽう正太も美登利の美しさを称える。そして、正太はこう提案する。
ねへ美登利さん今度一処に写真を取らないか、我れは祭の時の姿で、お前は透綾のあら縞で意気な形をして、水道尻の加藤でうつさう、龍華寺の奴が浦山しがるやうに、(p.69)
美登利の身体に何らかの変調があったことを踏まえると、「写真」を取ることは、大人へと成長し、それによって失われていく<子供たちの時間>を、永遠に留めておくことになったはずだ。しかし、どうやら「幻燈」と同様に「写真」を取ることも実現していない。つまり、<子供たちの時間>を瞬間に留めておくことが出来なかったのだ。こうして、美登利や正太あるいは信如たちは、<子供たちの時間>を喪失していくだろう。
こうして見ると、「幻燈」や「写真」といった視覚メディアに対する一葉の関心の高さが理解できる。また「写真」というメディアの性格を物語に巧みに利用していることにも重要である。先に引用した「紅入れ友仙」の場面の視覚性に、当時の視覚メディアによる影響を見るのはさほど困難なことではないだろう。一葉といえば、彼女の古典文学の教養がクローズアップされるが、一方で同時代の新しいメディアからも影響を受けた可能性が強いことを忘れてはならない。
- 作者: 樋口一葉
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1999/05/17
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