私の印象

吉田修一舞城王太郎を読んでみたのだが、漠然と感じているのは、この両者はそう簡単に一緒にして論じることはできないのではないかということだ。単に「西」とか垂直の視線だけで、二人の文学の特質を語ることができるとは思えない。
というのは、やはり吉田修一の『パークライフ』について書いた日記のところで引用した文章がひっかかるのだ。例の「スタバ女」は、 「借り物かぁ……、ほんとよね。外側だけが個人のもので、中身はぜんぶ人類の共有物。ちょうどマンションなんかと正反対。マンションは中身が私物で、外は共有だもんね」ということを語っている。外が個人で、内が共有物という見方がおもしろいなと思っていたのだけど、この見方はまるで舞城の小説のようではないかと感じるのだ。どこが、どのようにと具体的に考えているわけではないので、あくまで印象を述べているにすぎないけれど。
舞城の小説を読んでいると、たしかに一見すると奇抜だ。フォントの使い方といい、その言葉遣いというか文体といい、それらは、凡庸な言い方かもしれないが、個性的だ。だけど、中身は(どう言えばいいのだろう?内容というか、筋立てと言えばよいのか、思想と言えばいいのか…)、私には「借り物」に思える。乱暴に言ってしまえば、舞城の小説はどれを読んでも結局同じことしか書かれてないような、そんな印象を受けた。
暴走気味に言うと、そうした小説と吉田修一の小説はまた異なっていると思う。つまり、吉田修一は「外側だけが個人のもので、中身はぜんぶ人類の共有物」というような小説を批判的に見ているのかもしれない。とすると、吉田修一舞城王太郎は、別の方向を向いているのではないかと思う。これもまだ証明はない、印象論にすぎないけれど。
たしかに、垂直の視線というものが、この二人の作家にはある。その共通性は私も今回二人の小説を読んでみて、認めることができる。だが、それはテクストの表面上において、たまたま共通性が見られた、ということにすぎないのではないか。二人のテクストを読み比べれば、二人が全然違う方向に向かっていることが分かるのではないか。二人の共通性よりも、二人の違いを見つけるほうに、私は興味がある。