吉田喜重『嵐が丘』
◆『嵐が丘』監督:吉田喜重/1988年/西友・西武セゾングループ・MEDIACTUEL/132分
これは面白い映画。タイトルからも分かるように、ブロンテの『嵐が丘』が原作なのだが、それを日本の中世に置き換えている。この映画のおかげで、『嵐が丘』の原作がすごく読みたくなる。年末年始の時間があるときに、絶対読もうと思う。
この作品は、おそらく能を取り入れていると思う。旅の法師が、ある人の墓を探しているという冒頭の挿話は、能の形式なのだと思う。それにしても、吉田喜重の映画は、冒頭部分が最後には忘れられてしまうような終わり方をする。『樹氷のよろめき』は、冒頭部分で最後に死んでしまう青年の探している女性が登場しているのだけど、彼女がなぜ彼を捜しているのか、彼との関係が最後まで見ても分からなかった。というか、その物語は一切物語中で触れられていなかったような気がする。
この『嵐が丘』は、『樹氷のよろめき』ほどではないけれど、冒頭部分が何だったのか一瞬分からない。でも、冷静に最後まで見れば、冒頭とラストは繋がっていることはすぐに分かるだろう。吉田喜重は、倒叙法という語りの形式を使う。物語を結末部からはじめて、次に物語の時間を以前に戻して、再びラストで冒頭部分と接続される探偵小説とかで用いられる方法だ。『人間の約束』がそうだったし、この映画も倒叙法だと言えるだろう。
『樹氷のよろめき』に言及したのは、この『嵐が丘』の原形は『樹氷のよろめき』なのではないかと思ったからだ。原形という言い方が言い過ぎであれば、少なくともラストの部分は通底していると指摘することはできる。
『樹氷のよろめき』のラストは、雪山で飛び降り自殺した青年を、男(木村功)と女(岡田茉莉子)の二人が助け出し、雪山にを青年を体を引きずりながら山を降りてくる。しかし、その途中で青年が死んでしまうところで、映画は終る。
『嵐が丘』も舞台が山であることも注目できる。鬼丸(松田優作)は、最後の闘いで片腕を切られてしまうのだが生き延びる。そして、きぬの娘たちが、鬼丸が所有していたきぬの母(=これも、きぬという名前)の亡骸を再び弔おうとしたところに鬼丸が現れて、その亡骸を奪っていく。この時、棺桶をやはり引きずりながら運んでいる。ただし、こちらは山を登っている鬼丸の姿で映画が終るのだけれども。
要するに両作品とも、「死体」を引きずりながら運ぶ、という行為において通じ合うということが、私にはとても興味深い。しかも舞台が山であることも共通しているし。まだ、この類似点が何を意味するのか私には分からないが、他の作品にも現れていたら面白いのにと思う。
もしかすると、抱きかかえるという運動と何か関係があるのだろうか。吉田映画には、「抱きかかえる」という行為があることに気がついたのは、『秋津温泉』で、自殺した新子を周作が抱きかかえて運ぶのが、ラストシーンであった。また、『人間の約束』では、これは死んだ人間ではないが、妻が入院していたとき、夫(三國連太郎)が抱きかかえるシーンがあった。「抱きかかえる」と「引きずる」という二つの運動が、吉田映画の基本的な運動なのではないか。愛する人を「抱きかかえる」のか「引きずる」のか。この差異に注目してみたい。