長文が良いとは限らない(…と思う)

長文を書く人が多いなあという話を最近していた。私の身の回りでも、放っておくと果てしなく長い論文を書く人が多い。たいてい研究雑誌は、制限枚数というものを設けているが、それでは全然足りない、と嘆いている。私などは、論文のネタが少ないので、短い論文しか書けず、いつも論文を無意味に引き伸ばすのに苦労しているだけに、長文の論文が書ける人がうらやましい。
ところで、どうして最近の人は長文の論文が書けるのだろう?すぐに思いつくのは、パソコンの導入だ。いや、実際はワープロの普及が大きいのかもしれない。とにかく、手書きから機械で執筆するようになった、ということが長文化の一番の要因ではないだろうか。
パソコンだと、手書きより楽だというのもあるが、それよりもデータをため込んで好きなときにコピー&ペーストで使うことができるのも長文化にとって、必要なことだ。これによって、普段から資料をとにかくパソコンに入力しておいて、いざ論文を書くとき、それをつじつまが合うように並べると、けっこうな論文が出来てしまう。しかも長文なので、見た目はすごそうな論文に思える。これが、小熊英二の本だろう。(とは言っても、小熊氏の研究は充分に内容もすごいのだ。)
ところで、大量の資料で論文を構成するという方法も最近は多い。かっこよく言えば、自分の言葉よりも、資料そのものに語らせる方法だ。たとえば、文学研究でも、ある作品が発表当時どのように読まれたか、というテーマで、当時のあらゆるメディアを錯綜して、「言説」を分析するという研究もある。こういう研究だと、やたらと当時の資料を読ませられてシンドイものがあるのもまた事実だ。こういう論文を書く人というのは、大量の資料で裏付ける=客観的だ(あるいは実証的)、というように思っているのではないか。
こういう方法の元祖といえば、やはりフーコーではないだろうか。しかしながら、フーコーの研究も、資料の引用はかなり恣意的だったという。こういう話を聞くと、フーコーもやっぱり人の子なんだ、自分の研究に都合の良いように資料を並べていたのだなあ、とちょっと安心する。
資料の扱いが恣意的だったとしても、フーコー小熊英二あたりの本はまず読んで面白い。これが良い。大量に資料を使う必然性もある。それによって、通説や「神話」といった現在の私たちが当たり前だと思っていたようなことが覆されるので面白いし、したがって大量の資料を読む価値もあるのだ。彼らには、文書を読ませるテクニックがきっとあるのだろう。
問題は、大量の資料を用いれば実証的だと思っている人ではないか。大量の資料が語るのは、当時の真実だと思いこんでいる人のことだ。おそらくそれはない。資料を選択する時点で、当時の「真実」を再現することなど不可能だと思う。だいたい、大量の資料を用いて論文を書く人というのは、その引用する資料がもともとどんな文脈にあったのかを示さない。ただ、これこれと書かれた資料があった、とその該当箇所しか説明しない。これって、けっこう卑怯だと思う。文脈を合わせて考えてみたら、違う意味だったということがけっこうあるのではないか。
大量の資料を集めると、なんだかそれだけで研究がうまく行ったようで満足してしまう。問題は、集めてそれを分析してどう解釈するかではないだろうか。ただ、資料を並べて、当時はこうでした、と見せられても面白くも何ともない。退屈なだけではないか、と失望している。
要するに、ここで書きたかったことは、論文は長ければ良いというものではない、短くても、中身がぎっしり詰まっているほうが、読み応えがあるというものだ、ということだ。なんてことを言って、自分のことを擁護してみる。本当は、中身が充実した長い論文が書きたいのだけど…。