芸術を擁護してみる
昨日の続きを少し考えてみる。私自身の問題として、一つあげるならば、人間に自由はあるのか、もっと範囲を狭めるならば、芸術家にとって創造の自由とは何か、という問題になるだろう。自由が怖い、と言っている私がいうのもあれなんだが、芸術の創造は自由だ、と古くさいちょっと恥ずかしいこの言い方を、実は私は前提に考えているし、信じているのだ。この前提を批判されるとかなり痛い。きっと落ち込む。
たしかに、芸術のとりまく社会的状況、歴史的条件、政治問題などを踏まえて研究することは必要であろう。その成果を私も恩恵を蒙っている。目から鱗の落ちるような指摘だってあった。私だって、可能であれば、そういう研究、たとえば芸術の政治性など問題にしたい。
しかし、だ。芸術家の創造力というのは、たとえば社会的構造によって決定されてしまうのか、という疑問が湧いてくる。想像力は自由でもなんでもなくて、その時代、その社会構造によって制約されている。したがって、社会構造、歴史的条件を調べれば、芸術は解釈できる、で良いのだろうか?
こういう考えというのは、私には運命論というか決定論としか思えず、人間の創造する自由の入る余地がないような印象を持つのだ。人間には自由に創造する力はなく、創造はすでに社会構造によって決定されている。その範囲を逸脱するような、「天才」なんて幻想にしかすぎないのだろうか?このあたり、天才を信じるロマン主義者を自認する私としては、大いに不満を抱く点である。(と、ちょっとかっこつけてみる。)
たとえば、芸術作品がただの社会構造の反映でしかないとしたら、どうだろう。それでも人は芸術作品を作ろうと思うのだろうか。私は、構造や法則などには絡め取られないものが、芸術のなかには潜在していると信じているのだけど、この信念もまた近代によって生み出されたものでしかないのかなあ。なにを考えても、構造や法則によって生み出されたものだ、と相対化されてしまうと気分が萎える。なんだろう?何かが足りない気がするのだけど、それは何だろうか。自分にとっての新たな問題だ。芸術作品がもっている(と私には感じられる)力とは何か?