コピー取り
本を読む気力が無かったので、とりあえず肉体労働をしようと、面倒なのでこれまで避けていた、雑誌の論文のコピーをする。と図書館行って、雑誌を借りて、研究室でコピー。
コピーしなくてはいけないものは決まっているのだけど、それ以外の論文を雑誌のページをめくっていると気になり始める。いつのまにか、コピーを取る予定のないものまでコピーして時間を食う。おまけに枚数もかなりの数になって重い。ああ、どうせ読まないで、家で埋もれていくのだろうなあと思いつつも、コピーを取ってしまう自分がいる。いや、今回は絶対に読もう。
コピーを取りながら、オリエンタリズム研究というものが何を見逃しているのか、ということを考えていたのだけど、忘れてしまった。何だったろう?うーん、忘れてしまったのはもったいないが仕方がない。
たしか、こういうことだ。私の不満は、芸術家は、あるいは作家は、リアリズム以外の表現はしてはいけないのか、ということだ。どういうことかというと、たとえば紋切り型の言い方をするならば、「○○という作品は、植民地について××という典型的なオリエンタリズムの表現をしている。すなわち、植民地の真実を描いていなかったのだ」といった批判のことを想定している。(こんな下手な言葉使いの論文はないかもしれないが…)
こういう批判というのは、芸術家であれ、真実しか描いてはいけないのだ、それ以外は全部虚構だ、嘘だ、許さん!ということを前提にしている印象を受けてしまう。そう言ってしまったら、芸術家はリアリズムでしか表現できないのか?たとえば、ある画家がたまたま植民地をモデルにしつつ、自分の理想を踏まえた牧歌的な風景画を描いたとする。そしてそれが、その時代にはありえない風景だったとする。で、何十年後かに、その風景画は典型的なオリエンタリズムの表現であると批判される。何か違う、と思う。もし、「真実」のみしか描いてはならないというなら、芸術などすぐに退屈になってしまうのではないだろうか。芸術をそんな窮屈な場所に閉じこめて良いのだろうか?
それから、この場合「真実」とは存在するのだろうか。いや、正確には誰にとって「真実」かが問題となるのだろう。芸術家にとっての「真実」と実際に植民地で生活する人々の「真実」は異なると思う(もちろん共通する部分もあるだろうが)。芸術家は、あくまで植民地に生活する人の「真実」しか描いてはいけなかったのか。
ある時代の芸術家の表現を並べてみたら、それはある種の傾向が見いだせるだろう。それが、蔑視的であったと指摘するのは良い。でも、だから何なのだ、という気持ちになる。私にとって重要なのは、その後だ。オリエンタリズムと指摘するものがあったとして、しかしそれでも芸術は価値があるのかないのか。こうした紋切り型には収まらない過剰なものが、芸術にはあるのかどうか。やはり私は、社会学者ではないので、オリエンタリズム発生のメカニズム、社会的条件を調べるよりも、そんなステレオタイプに収まらない芸術の力を探り当てたいと思っている。文学とか絵画とか映画でも、たとえ研究者にオリエンタリズムだと指摘されても、それらを目の前にして感動してしまうことがある。その力が知りたいし、それを言葉にして他の人にも伝えたいのだ。
たぶん、そんなことを考えていたのだと思う。