ほどほどな「自由」がいい
◆森村進『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』講談社現代新書
国家や政府の介入を可能限り抑え、民間や個人を自由のもとで何ができるのか、を考えるのがリバタリアニズムっていうことなのだろうか。
とにかく、何事も「自由」を尊重する。簡単にまとめてしまえば、個人の「自由」を妨げるものがいらない、という立場だ。リバタリアンの考えがいろいろ紹介されており、それらを読んでいると、なるほどたしかに政府の介入はないほうがうまくいくのかもしれない。民間や個人の自由に任せてしまっても、人は生きていくことが可能なのだなあと思ってしまう。放っておいても大丈夫、余計なお節介はいりません、ということらしい。
もちろん、私はリバタリアニズムへの批判があることを知っている。リバタリアンの主張する「自由」にも落とし穴があるという。場合によっては、「自由」がとんでもないことを引き起こす可能性があることも。だから、私自身がリバタリアニズに全面的な賛成といかないのは、批判を知っているからと言う理由も一つある。
しかし、そうしたレベルの話とは別に、私自身の性格からしてリバタリアニズムはつらい。
まず、大きな理由として「自由」が怖い。自分で決めなさい、自分で考えて行動しなさいと言われるのが怖い。なぜか?他人はどうであれ、自分自身だけは誰かに(たとえば家族なり、国家なりに)守られていたい、保護されていたい、というエゴイズムがある。要するに「甘え」あるいは「フリーライダー」というものである。
こうした自分だけは徳を得ようとするのは、「甘え」以外のなにものでもなく、リバタリアンだろうが、共同体主義者であろうと、そうした主義主張と関係なく私は批判されるだろう。まず、他人への「甘え」から直せ!と。他人に依存している限り、どんな批判も説得力をもたない。しばしば、私は社会や大学の制度に対し批判をしているが、その批判に他者を納得させるだけの説得力がないのは、私が上記のような「甘え」から批判をしているからである。「甘え」から発された批判など、誰が納得できよう。
しかし、私は他人に守って貰おうという「甘え」から抜け出せない。抜けだそうとしない。いつも、ここで思考が行き詰まってしまう。こんなことを書いていると、「そんなことを考えている暇があったら、さっさと自立すればいいじゃないか」「甘えるのを止めればいいだけじゃないか、何をそんなに怖がっているのか」と不思議に思ったり、うだうだと面倒な奴だ、と人は思うのではないだろうか。たしかに、こんな風に面倒くさく考える必要はない。これは、悩みのうちにも入らないだろう。
簡単なことができない、いや、正確にはやろうとしない。考える前に、うだうだと悩む前に「やってみろ」と人は言う。これは正しい。私もその通りだと思う。だけど、やらない。それはなぜなのだろう?
というわけで、とにかく私にとってなんでも「自由」は怖いものだ。逆に自由を奪われ、抑圧されたり強制されたりするもの怖いが、自由であるのも怖い。ほどほどな自由がいい。自分の都合のいいところだけ「自由」で、面倒なことは誰かがやってくれるような、「自由」な生活が良いなあと思う。もちろん、こんな自分中心の生活なんてあり得ないし、バカげているのは分かっているが。
今日の日記は、かなり読む人に反感を買いそうな文章だと思う。怒りも買いそうな気もするが、まあ良いか。