もし自分ならどうするか

時々、苅谷剛彦『知的複眼思考法』を読み直して、自分の本の読み方や論文の書き方などを反省している。
私は、気が短いのか、そそっかしいのか、思いついたことをそのまま書いてしまって、後から冷静になって自分の書いたものを読み返して変なことを言っていたと気付き、いつも恥ずかしい思いをする。こういう欠点を直さないといけないと心がけているのだけど…。
ところで、『知的複眼思考法』のなかで、学生に批判をしてみなさい、と言うと、たいていの学生は相手の欠点を指摘するだけで終ってしまうと述べられている。学生にとって、「批判する」ということは、どうも相手の欠点や欠陥を探し出すことだと思っているようだと。
そうした欠点を欠陥探しのみの終始する「批判」ではなくて、相手を批判するときには、自分でも代替案を考えてみなさいと提案している。

問題点を探し出すことで止まってしまっては、「批判的読書」は思考力を鍛える半分までの仕事しかできません。考える力をつけるためには、もう一歩進んで、「代案を出す」ところまで行く必要があるのです。そこで、私は学生たちに、「自分だったらどうするか、というところまで考えて、そして、考えたことを考えたままにしないで、必ず紙に書くこと」を強調します。思考を厳密にするうえで、書くことこそが、もっとも基礎的な営みだからです。(p.127)

考えたことを書き出すことは出来るのだが、この「自分だったらそうするか」という代案を考えることはけっこう難しい。でも、これが批判するときにもっとも重要なことだ、と思う。これがない批判は、批判ではないと思う。「代案」のない「批判」は、単なる揚げ足取りにしかすぎないのではないか。まあ、「揚げ足取り」は言い過ぎかもしれないけれど、相手の欠点を指摘するだけして、それで終りというのは、お互いにとってあまり生産性がないのではないか、と思う。
「あなたのここに問題がある、私ならこうする」とまで考えて、批判の相手に指摘してあげられるようになれば、議論のきっかけになるし、不毛な罵り合いにもならないと思う。自分のことを棚に上げて、議論しようとするから、平気で他人を罵倒する人が現れるのだろうと思う。相手を批判するとき、もし自分が相手の立場だったら、という想像力が働けば、少しは実りある議論が出来るようになると思う。
時に、相手を批判するというパフォーマンスで、自分の優秀さを顕示しようとする人がいるが、最低な行為だと思う。そういう人や、そういった類の文章をネット上で見るたびに、気分が落ち込み、人間不信に陥る。
自分がそんな醜い顕示欲に駆られないように、常に「もし自分ならどうするか」ということを考えて批判を行うようにしようと思う。批判というのは、けっして相手を罵ることでも、自分の優秀さをアピールすることでもないのだ、ということを忘れないようにしたい。