ひたすら読書、読書、読書
◆柄谷行人『倫理21』平凡社ライブラリー
◆ソフィア・フォカ、レベッカ・ライト『イラスト図解 “ポスト”フェミニズム入門』作品社
◆市野川容孝『身体/生命』岩波書店
休日のひきこもりらしく、ひたすら読書、読書、読書で一日が終る。なんとか今日は3冊。とはいっても、どれも薄い本なので、読み終えるのに、たいして時間はかからなかったけれど。薄いとはいっても、中身は濃い本だ。それにしても、そろそろ読書ばかりの日々も飽きてきた。なにか別なことでもしないといけないのかも…。
『“ポスト”フェミニズム入門』は、たくさんの思想家が非常にコンパクトに紹介されていて、こんな人たちがこういう思想を説いているのか、と手っ取り早く知るには便利。というか、このイラストシリーズは、どれもさらっとその分野を知るには便利だ。とはいうものの、訳者のことばによれば、誤りもあるそうだし、気をつけねばいけないシリーズでもあるのだが。
『身体/生命』、これはフーコーの「生−権力」をもとに、西洋においていかに「身体/生命」が語られてきたのかを検証した本である。フーコー的手法でフーコーを乗り越えようとした本。フーコーが依拠した本をもう一度読み直し、さらにフーコーがまったく言及していない資料にも触れ、フーコーが残した「穴」を埋めていく。その誠実さに尊敬してしまう。
でも、いつもこの手の研究手法に対して思うのだけど、トリビア的な感想しか持てない。つまり「へぇー、へぇー、へぇー」という感じ。それはそれで、たしかに面白いのだけど、知っているか知らないかの差だけなんだなあと。知っている者勝ちみたいな。ちまたでいう言説分析とか、フーコー風にいえば「知の考古学」とかに対して最近感じているのは、結局誰よりも先にあまり知られていない資料を見つけた者が勝ちなんだよな、ということだ。研究者って、そういうものかもしれないが。
ところで、言説分析のことだけど、私自身の理解不足を棚に上げて言うのもおこがましいけれど、言説分析と従来の実証的分析の違いってあるのだろうか。「〜の言説分析」とかいうようなタイトルの論文って、けっこう研究雑誌など見るとしばしば見かけるのだけど、それらは、一番アカデミックな手法と言える実証的手法と、あまり変わらないような気がするのだけど。そもそも「言説」という概念が、現代思想でも人によって異なるわけで。*1やっぱり、自分できちんと「言説」というものから理解しよう。*2
さて、『倫理21』だけど、講演調なので、私が理解しやすい形式の本だ。読みやすいのと、中身を完璧に理解するのはまた別問題だが、カントが自由という観点から道徳を見た、ということを核にして、自由なくして責任というものがありえない、という話へ進んでいく、という感じだろうか。
自由なくして、善悪はない。自由とは、自己原因的であること、自律的であること、主体的であることと同義です。(p.79)
自由がなければ、責任というものがありえない。今風に言うと、たとえば脳のある部分によって、すべての人間はある特定の犯罪を犯してしまうというような発見があったとする。犯罪の原因は、その脳のある部分にあると。そうなると、その犯罪を犯した人は、自由に行動したわけではなくて、脳によってさせられたのだから、責任を問うことができない、ということだろうか??。
ところで、ニュースを見ていたら、がんの治療で放射線治療を受けたが、その過剰な放射線の結果、がんはたしかに消えていたが、副作用で死亡するということがあったという。*3
おそらく医療事故と言って良いのだと思うが、こういう時、医療の側は分からなかったとか知らなかった、と言っているというふうに報道される。だけど、『倫理21』に照らしてみると、無知であることは免罪にはならない、とある。
たとえば、われわれはそれが罪であることを知らずにやってしまうことがある。では、無知ならば、責任はないのか。それを知りうる能力をもつ者であるならば、責任があるのです。(p.81)
こういうときの責任の取り方として、徹底して原因を認識することだと言う(p.83)。でも、徹底的に認識することは難しい。