自分にとって読みやすい本とは
◆宮台真司・姜尚中『挑発する知』双風舎
◆『談 特集自由と暴走』2004 no.70
福田和也が『ひと月に百冊読み三百枚書く私の方法』のなかで、「書くコツ」として自分の能力を知っておくことと述べている。その能力に、情報を集める際に、自分がどういう文章のものであれば、理解しやすいのか知っておくと、情報の海に溺れなくてすむという。
自分にとって頭に入りにくい文章とはどういうものなのか。読み易いのは、どういう類なのか知っておくことも大事でしょう。(p.92)
私自身のことを振り返ってみると、私が読みやすいあるいは理解しやすいと思う形式は、対談形式のものやインタビューの形式だ。要するに、会話体で書かれた本が頭に入りやすい。特に思想関係の本は、語り口調で書かれた入門書を読むと、思想のおおよその流れが掴めて大枠を理解しやすいので重宝している。それに、スランプや勉強がしたくないとき、こうした対談形式の本を読むとなぜかやる気が湧いてくる。
対談とかインタビューだと、抽象的な話をずっとしていても、聞いている側が飽きてしまうから、随時具体例が挿入して、語ることが多い。こうした具体例が、理解を容易にしてくれるのだ。まあ、普通に論文や研究書を読むときにも、自分で具体例を思い浮かべて読むようになれば、こうした入門書を必要としなくなるのだけど、私にはまだ抽象的な理論から、具体例を自分で想像して理解する、という能力がない。知識不足なのか経験不足なのか、分からないが。
というわけで、きょう読み終えた二冊の本は、どちらも対談やインタビューを書き起こしたもの。なので、それぞれの人がどんなことを考えているのかということが、著書を読んだ時以上に理解しやすかった。やはり、私にはこういう形式の本が良いのだろう。
『挑発する知』は、丸山真男のことをしばしば言及していたのが目を引いた。二人は、丸山真男の評価を巡って、微妙に意見を異にする。ひいては、それが二人の戦略のちがいと繋がっているのだろうと。
(宮台)丸山さんはこのように「一身独立して、一国独立」という、福沢諭吉的な概念を翻案するかたちで社会学的なモデルをつくりました。このモデルは、いまも有効です。今日、このモデルだけで社会を構想したのでは、姜さんがおっしゃたように、多くの解決できない問題が残ります。しかし「一身独立して、一国独立」なるものを達成せずして、それだけでは解決できない問題を、解決できるだろうか。私などはそう考えてしまうのです。(p.142)
宮台氏は、ステイトをハンドリングすること、などということを述べているし、国家を操縦する「主体」が必要なのだろう。しかし、当然こうした主体性に対してはつねに批判が出てくるものだ。
(姜)最近、私が考えるようになったのは、強い主体を立てるという考え方が、だんだん自分に合わなくなってきているということです。やはり強い主体を立てるということは、多くの場合、非常にいびつな抑圧を含んだりするのです。つまり病理的な現象が起きると、やはりどこか弱いからだとかいう議論になるわけです。
私は主体主義というものには、限界があるのではないかと思います。(p.146)
丸山真男批判というは、たいていこうした姜氏のような主体性への疑問から出ている。宮台氏もそういた文脈を知っているのだろうけど、戦略としては、ハンドリングするということを強調しているのだろうと思う。しかし、ステイトをハンドリングする者は誰なのか、など問題はたしかに多い。
いま、「主体性」の問題を語らせたら面白い人が、仲正昌樹氏だと思う。『「不自由」論』での、「自己決定」批判はとても面白かった。その仲正氏と宮台氏のトークセッションが行われるという。*1
これは、けっこう白熱しそうな予感。このトークセッションもまた本になれば良いなあ。
仲正氏の考えとしては、つぎのようなことになる。
主体性というのはあらかじめあるものではなくて、何かをやっていくうちに状況が変わっていて、その中から発見して新しいルールを見つけていくうちに、事後的に見出されてくるものだと思います。(『談』p.127)
私は、『「不自由」論』を読んだときから、この本は宮台氏を批判しているのだろうと思っていたので、宮台氏が仲正氏の批判をどう切り返すのか、興味がある。