目から鱗が落ちる読書
◆小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』ちくま新書
◆島田雅彦『漱石を書く』岩波新書
『ヒトは環境を壊す動物である』は、目から鱗が落ちるとはまさにこういう体験のことを言うのだろう、と思うぐらい勉強になる本だった。自然科学音痴の私は、いかに自分の知識が偏ったものであったかを思い知る。
本書の冒頭で、チューブワームという動物が紹介される。この動物は、水深2600メートル、300度の熱水の噴出孔近くに生息する動物だ。体長は数十センチから二メートルぐらいのものまであり、細い棒状の形をしていて、口と胃腸と肛門がないという。太陽の光が届かない深海で、熱水があり、栄養素である硫化水素に囲まれているということが、この動物にとっての「環境」なのだと言う。
地球には、このような「環境」で生きている動物がいるのである。この「環境」は私たちが指す環境とは全く異なっている。人間が指す環境がいくら破壊されようと、地球は存在するのであり、チューブワームのような動物が生き残るかもしれない。そう考えると、私たちが環境問題として考える環境がいかに「人間」中心であったかが分かる。「地球にやさしい云々」「地球治癒」といった言葉がいかに欺瞞的であるかと指摘している。
しかし、よく考えてみればこれほど欺瞞的なものはありません。万が一温暖化が非常に進んで陸地のほとんどが水没しても、地球そのものはびくともせず存在し続けます。こういったスローガンに欠けているのは、地球環境問題といったときの「環境」とは何であり、「問題」とは誰にとっての問題かという意識です。(p.26)
私は、この部分だけを読んだだけで、この本はすばらしいと思った。私が「環境問題」と考えていたことが、いかに人間中心の狭い関心の幅しかなかったか、ということを知ったからだ。自分の気づかなかった盲点をズバリと突いた考えだった。そもそも人文系の学問は、(私だけかもしれないが)ついつい人間を中心に考えてしまう。自分の環境は普遍的な環境という思いこみが働いてしまう傾向があるのだろう。こうした偏見を見つけるためにも、たまには普段読む本とは異なる分野のものを読むと良いのだ、と改めて実感した。
他にも、道徳がどうして生まれてきたのか、ということをヒトの進化の過程から考察しているところなど、その説が妥当かどうかは分からないけれど、けっこう面白く読めた。
たとえば、自然淘汰というと強いものだけが生き残っていくというイメージがあるけれど、実はそれだけでは効率が良くないらしい。あるところで他人と協力したほうが、生き残る確率が高くなることがある。そうしたとき、協力をしない裏切り者をどうするか、ということが問題になる。こうした過程のなかで道徳性が生まれてくるだろう。要するに、市場と同じなのだ。自分だけが勝ち残るよりも、相手の出方を見て、それに合わせて競争したほうが、効率がいいということらしい。このあたりゲーム理論などを使って、うまく説明している。
現代人であるホモ・サピエンスの脳に見合った集団の大きさというものがある。それによると、150人ぐらいの集団が脳に見合うサイズらしい。これを狭いと見るか、広いとするかは個々によって印象が異なるかもしれない。それはともかく、それ以上のサイズは脳の容量オーバーになってしまうので、うまく考えることができなくなるだろう。
「あとがき」のなかで著者は、環境問題は「身の丈サイズ」を超えていることが問題であるという。だから、まず問題を「身の丈サイズ」に変換してから取りかかるのはどうかと述べている。この変換が現状を性格に反映できるのかどうか、問題が残るがこれも一つの提案として考える価値がありそうだ。
それにしても、この「身の丈サイズ」だけど、現代人は両極端なサイズに分かれているのかもしれない。まったく「身の丈サイズ」を超えたところで物事を捉えようとする人と、150人というサイズどころかまったく1人の「身の丈サイズ」で物事を捉える人というような感じで。こうなると環境問題を話し合うのは難しいだろうなあと思う。まず、私たちに相応しいサイズをどうやって共有するのか、ということから始めないといけないのかもしれない。
『漱石を書く』は、残念ながらあまり面白い本ではない。面白くないというのは、目新しい意見がないという意味で。この本が出たのは1993年だから、その時ならば少しは新鮮な読みだと感じられたのかも知れない。当時というか1990年代頃といえば、漱石研究ブームといえる頃で、たとえば小森陽一や石原千秋氏あたりで新しい漱石研究が続々発表されていた。島田雅彦もそうした研究成果を参考にしたとある。だから、というか作品解釈は、当時の研究成果とほぼ同じ内容だなあと。島田自身の読みというのが、あまり感じられない。90年代の漱石研究が今や通説となった今の時点で読むと、「凡庸」な意見だとしか思えないのだ。読んでいて、かなり退屈してしまう。唯一、読んで価値があるのは、「漱石の方法」と題された第3部ぐらいだろう。したがって、もしこの本を読まなければならないとしたら、第3部だけ読むのを薦めたい。