こわい、こわい

香山リカ就職がこわい講談社
私にとっては、けっこう痛いことが書かれてあって読むのがつらかった。この本で言及されているような就職からにげる学生と自分がだぶってしまう。だから読んでいると、自分のことを分析されているようで、つまり自分の内面を見せつけられているような気分になる。
この本のメッセージは、将来自分がどうなるか分からない、自分が何をしたいのか分からないからと言って、いつまでも就職をしない、いや就職活動すらもしないでいるより、とりあえず仕事をしてみませんか。なにより、守ってくれる親はいつまでも生きているわけではない、社会が手をさしのべてくれるわけではない。いつかは自分の力で生きていかなくてはならない。自力でサバイバルできる力をまず身につけておくことが必要だ、ということだろうか。このような意見は、たとえば山田ズーニーの意見*1と同じだと思う。
たしかに、自力で生きていく力は必要だなあと思う。だから、この本を読むと痛いわけだ。自立をしなくてはと思っているが、まあいつかは、と先送りしてしまう私がいる。
就職がこわいのはどうしてだろう?。一つは、就職が人格と結びついているような感じがするからだ。たとえば、採用試験に落ちるというのは、単に巡り合わせが悪かったということだけかもしれない。しかし、こわいと感じる者にとっては、不採用は人間失格を宣告されたように感じる。

しかし、そこまで職業や仕事に「自分らしさ」を求めなければいけないのだろうか、という疑問も残る。あるいは、そこまで「仕事=自分自身」という方程式を満たさなければならないということは、逆に日常がそれほど不安定で自己肯定感が低いということか、とも思う。(p.193)

著者は、自分に対する自己評価の低さ、極度な自信のなさが若者にはあるという。その一方で、自分だけは特別と思っている、only one幻想のようなものがあることも指摘している。
この指摘は、自分自身に照らし合わせてみても、たしかにその通りだなあと思う。この指摘もかなり痛いところをついている。
仕事=自分という考えに疑問を投げかける著者にとって、たかが仕事で、自分の存在価値を否定されると考えるなんて、という驚きがあるのだろう。鷲田清一『教養としての「死」を考える』では、こんな若者を薄っぺらいと言っていたと思う。
それにしても若者に限らず、仕事=自己実現と考える人は多いと思う。たとえばビジネス書を見てみれば、仕事で自己実現させよう、というメッセージで溢れていないだろうか。バブルがはじけて不況と言われるようになってから、特にそんな雰囲気を感じるのだけど、どうだろう?。ビジネス書の世界、あるいはビジネス関係のメルマガを読んでいると、仕事で自分の夢を叶える、叶えようというメッセージが多い。仕事と自分の夢がイコールで結ばれている。そしてこうした本やメルマガを発行する人たちは、おそらく仕事で運良く自分の夢を叶えた人たちばかりだ。
しかし、一方で多くの人たちは、仕事で自己実現することができずにいるのではないか。だから、ビジネス書が商売として成り立つのだろう。仕事=自己実現は、多くの「負け犬」を必要としているのではないか。
それから、この本のなかで『絶対内定』などいわゆる就職本が論じられているけれど、たしかにあの手の本を読むと、就職活動に恐怖を感じる人が出てきても仕方がないのかもしれない。私も立ち読みしたことがあるけれど、就職本の「熱さ」「熱気」にはついていけない。異様な細かさの自己分析シートとかあるけれど、たとえば普段の講義レポートですら提出するのに苦労する学生があんなものをできると思うのだろうか?。また徹底した分析がなければ、採用されないとか書いてあると、それだけでやる気がなくなると思うのだが。
さて、就職とは別に面白いものを見つけた。女性と仕事について述べているところがある。ジェンダーフリーが女性にとって良かったのかどうか、ということだ。で、そのなかで、こんな文章がある。

「私は女性なので女の子らしさが好き」と屈託なく語った学生のように、何の疑問もなくフェミニン路線に走る女性も少なくないのではないだろうか。(p.149)

私が興味を持ったのは、女性論の中身ではなくて、この文章のなかで「屈託なく」という言葉現れていることだ。この言葉は、もう一カ所登場する。

一方でそれは就職率の低下やフリーターの増加につながっているが、また一方でそれは屈託のないナショナリズムにつながっているのかもしれない。就職率の低下とナショナリズムとのあいだには一見、何の関係もなさそうだが、その根底には「何も考えられない」「自分の状況がよくわからない」といういまの若者特有の心理傾向が隠れている。(p.161)

「屈託ない」という言葉に注目したのは、ほかでもない。先日読んだ大塚英志の『サブカルチャー文学論』にはこの言葉が頻出しているからだ。もしかすると、最近の論壇のテーマを表わしそうな言葉ではないか。ベタなんて言い方やあるいは「動物化」という概念、これらはみな「屈託ない」人びとが増えていることを示しているのではないか。評論家や批評家は、当然「屈託なく」言動しないわけで、ある意味斜に構えた人たちだ。そんな人たちから見ると、屈託なくサッカーの応援で日の丸を振ってしまう人なんて信じられないのだろう。「屈託ない」という言い方、ちょっと今後も気をつけてみようと思う。

*1:「おとなの小論文教室。Lesson190 自己実現難民?」http://www.1101.com/essay/2004-03-24.html