テクノロジーへの違和感

鷲田清一『教養としての「死」を考える』洋泉社
やっぱり予想通り、これまで書いてきた身体論やケア論をもとにして「死」を考えるという本だった。というわけで、目新しい意見はない。鷲田本をずっと読んできた人なら、すぐに読み切れる本だと思う。
キーワードは「関係性」。「私」というのは他者との具体的な関係において現れてくるという。そして「生」や「死」もまた関係性において把握されるのだ、という。で、現代は「生」は「死」が昔と比べて見えなくなっているということから、話は始まる。
なぜ、見えなくなってきたかといえば、「死」が私たちのもとから切り離されてしまったからだ。「生」や「死」が専門家の手に委ねられてしまっている現状を指摘する。
この本では、生命倫理が批判される。生命倫理は科学的な視点から、何が「生」で、どんな状態が「死」にあるのか、ということを非常に細かく議論し、ガイドラインや法律を決める。しかし、「生」や「死」というものは、ガイドラインや法律によって決まるものではないのだ。その都度、「私」と「他者」との関係において「死」が現れてくるからだ。

人の始まりや終りは、個体がどういう状態になったからどうだとか、そうなっていないからこうだとか、物理的に決められる問題ではありません。本質的に、その個体がどういう社会関係のなかに置かれているかによって決まるということですね。(p.30)

科学技術や医療技術の発展は、たしかに人に役立っているのかもしれない。しかし、技術が高度になればなるほど、素人には理解できなくなる。それによって、ますます「死」が不可視の状態になってゆく。こうした技術批判、テクノロジーへの違和感というのは、たとえば最近の東浩紀の監視技術批判などに繋がるのかもしれない。工学的な価値観が社会を覆ってしまうことへの危機感を人文学系の人たちは持っている。
ところで、引用した箇所で気になるところがある。それは文末にある「〜ですね」という文体だ。この本、著者が読者に語りかけるようなスタイルで書かれている。なので、文末にけっこう「〜ですね」と「ね」が頻出する。私は、この「ね」に何か不自然さを感じる。はっきり言って気持ちが悪い。「ね」をとって、「〜です」でも充分に通じる文章なのに、取って付けたように「ね」がつけられる。これはどうしてなのだろう?「ね」を連発されると、自分の考えを押しつけようとしているのではないか、と勘ぐってしまう。いや、本を読んでもらえれば分かるかもしれないが、実際この本には、団塊世代の押しつけがましさというのを感じることもある。ひねくれて読むと、単に「昔は良かった」という話なのではないか、と思ってしまうのだ。で、今の「若者は〜」という話が加わる。私など天の邪鬼な性格なので、「だからなんだ!」と言いたくなるところだ。これもすべて、この「ね」の不自然さに起因しているのだと思う。