何も出来ない自分にも腹が立つし情けない
学生は大学に対して何の力も持っていないのかと思う。学生は、大学側が決めたことを粛々と守るだけで、大学の運営に対し何の反対も抵抗もしてはいけないのか。抵抗するとしたら、一体どんな方法があるのか、ということをここ数日考えている。で、何か参考になる本があれば良いなあと思うのだけど、なかなか見つからない。
大学を良くしたいとは思わないけれど、理不尽な人事や運営を見ているとどうにもやりきれない。結局、学生は大学が理不尽な決定を下しても何の抵抗もできない。というか、学生には全く情報が与えられないので、大学内部で何が行われ、どういうことが進められているのか分からない。いつも学生とは関係のないところで何かが決まってしまっている。一部の権力を握る者が決定をしているのではないか、と疑心暗鬼が募る一方なのだ。
やはり、学生が大学に抵抗しようとしたら、バリケードを作るしかないのか…?というかバリケード作りたい。
どうして、大学の運営に学生は参加できないのか。学生は教授の授業を黙って受け、試験を受け、単位を取得するだけで良いのか。分からない。自分でも何が不満なのか、実はよく分かっていない。だけど、今の大学は何かがおかしい。
たとえば、身近なところから考えてみる。以前にも愚痴った覚えがあるのだけど、うちの大学には似たような専門分野がいくつかある。はっきり言ってしまうが、国語学という分野があり、別に日本語学というのがある。また文学部とは別に言語文化部というのもあり、ここでも日本語に関する研究が行われている。はっきり言って無駄なのだ。国語学と日本語学の違いなんて、外から見る限り扱う時代に違いがあるぐらいだ。現代に近い日本語を扱っているのが日本語学で、昔の日本語を扱うのが国語学といった感じ。これぐらいならば、いっそのこと合併してして一つにしてしまえば、教官も少なくてすむし、合理的だ。なのに、分かれたままだ。縦割り行政というのか、官僚的というのか、一度決定したことは余程のことがないかぎり変わることがない。
なぜ、国語学の研究室を目の敵にするかといえば、端的にここが卑怯だからだ。ここの専門分野は、近年進学者が少ない。従って規模も小さい。なのに、なぜか教官の人数は増える一方だ。それも、他の研究室の教官を追い出して、自分のところの教官を増やすというやり方なのだ。正式な事情は知らないし、おそらく契約の問題だから、法的に問題は一切ない。そんなことは分かっていても、こういう話は正直イヤーな気分になる。大体、現在も学生の数は少ないし、今後も学生が増えそうもない国語学専攻に教官を増やしてどうするのだと言いたい。が、そういう不満を学生は言えない。言っても誰も聞いてくれないし、何かが変わることはない。学生はなぜそうなったのか経過を知らない。大学というのは、このように不明瞭な部分が多すぎる。で、こういう事情は受験生は知らない。知らずに大学に入学してくる。こんなドロドロした事情など、知らない方が幸せかもしれない。けど、私は知らせたい。大学には、何かおかしな所がある、ということを受験生は知っておくべきだ。やっぱりおかしいと思う学生が一人でも増えるのは良いことだと思う。それで悪い評判がたって、独法化した大学が倒産しても構わないと思う。
おかげでというか、もしかすると関係はないのかもしれないが、一方で教官の数が全然足りない分野に対して教官を増やそうという動きがない。一体どういうことなのか。こういう人事に対して、私たち学生はなんの口出しもできないのである。教官のことは教官が決めるとでも言いたいのだろうか。アホらしい。学生は、たとえば授業料を支払っているわけである。なのに、大学に対しては黙って従わされているだけ。反対、抵抗などもってのほかと言わんばかり。不満があれば、大学をやめればいい、そんな感じだ。で、おそらくこれは真理だ。不満があればやめれば良かったのだろう。ぐだぐだと日記にこんな愚痴を書いている私は負け犬にすぎない。
しかし、大学において、学生というのものはただ黙って講義を聴いてさっさと卒業してしまえば良いのだろうか。たぶん、学生も教官もそう思っているのかもしれない。学生にとって、大学の人事がどうであろうと、どんな建物を建てようが、4年して卒業できればいいのだから。
では、どうして私はこんなことを考えてしまうのか。自分でも分からない。でも、何か考えなくてはいけなと思う。はっきり言って、今の自分の大学が倒産しても構わないのだ。なぜなら全く愛着が持てないので、母校という誇りを感じることができないから。
こういう時、自分の頭の悪さが悔しい。明晰な頭脳をもって、教授達の反論をスパッと切り捨てる論理を瞬間的に組み立てられるような人間だったら…きっとすぐにでも反乱を起こしていただろうなあと思う今日この頃。