「読む」ということはどういうことか

小松英雄徒然草抜書 解釈の原点』三省堂
福田和也『ひと月に百冊読み、三百枚書く私の方法』PHP研究所
徒然草抜書』は、文献学的手法を使っていかに一つのテキストを読み解くかを示した実践的な本。たった一語についてだけでも徹底してこれまでの通説を疑い、資料を丹念に調べることで、豊かな解釈をすることが可能である、ということを教えてくれる。なにも新しい理論などを用いなくても、作品と真摯に対話することでまだまだ古典も読み直すことができるのだということが分かる。
一方で、文学の研究、一つの作品を解釈するというのは、これほどまでに手の掛かるものなのか、ということも分かる。「ひくらし」か「ひぐらし」か、濁って読むのか濁らずに読むのか、ということを様々な用例を調べて、どの読み方が妥当なのか、検証したりする。そのうえで、この言葉をどう解釈するのか考察が加えられるわけで、一語を疎かににしないというのは大変なことなのだなあと思う。自分の読み方がこれまでいかにいい加減なものであったのか、反省する。
『ひと月に百冊読み…』は、最近この続刊が出た。この本に書かれてあることで、私の関心を引いたのは第5章の「文章上達の「近道」とは」の箇所だ。福田和也は、本を抜書きすることを薦める。しかもノートに手書きすることを。手で書くことで、理解できることがあるという。で、この第5章では、文章をうまく書きたいと思うなら、誰かの文章をコピーしてみると良いという。文章を書き写し分解することで、その文章の構造なり方法を掴むのだという。実際に小林秀雄の文章を分解していた。この方法になるほどなあと感心していたのだけど、これも『徒然草抜書』の方法と通じるところがある。一つの文章を理解しようとしたら、徹底的に分解して、些細なことでも見逃さずに理解しようと努める姿勢がある。文学の研究者というのは、こういう人たちを指すのだろう。ただやみくもにたくさんの本を読んでいるだけではないのだ。