村上春樹の「日本語」

今日から早いもので4月。4月は新学期。といっても、今学期は休学しているので関係ないのだけど。自分の研究を少しずつ進めていかねば。
昨日から大塚英志サブカルチャー文学論』を読み始める。この本も分厚い。最近、分厚い本を出す人が多い。でも、実は分厚い本を読むのが好きだったりする。200ページぐらいの文庫本だと2、3時間で読み終わってしまってなにか物足りないと感じる今日このごろ。
そうそう、『サブカルチャー文学論』だけど、江藤淳サブカルチャーに対して向けた態度をはじめに分析して、それを軸に「サブカルチャー」としての「日本語」「日本文学」を論じる。で、村上春樹吉本ばななを比較しているところなどは、面白い。面白いというか私は強い関心を持った。
私の中のイメージで、村上春樹のほうが海外であまり「日本」を意識させない文学なのでは、と思っていた。日本文学のなかでも村上春樹というのは、多く翻訳されて読まれているのではと思っていた。それが村上の作品に「日本」を意識させないからでは、と考えていた。
だけど、この本によると、どうも村上春樹は制度としての「日本語」に無自覚に頼っているところがあるらしい。初期作品に見られる俗に言う翻訳調の文体は、英語で書かれた物を日本語にした不自然さ、というよりむしろ関西弁を標準語に翻訳した不自然さではないか、という指摘が目新しい。たしかに村上春樹は関西出身で、大学で東京に行ったのだから、この指摘は鋭いかも。たいていの村上研究では、英語から日本語にしたものだ云々という作者の言葉をそのまま受け取ってしまう傾向にあったと思う。関西弁を標準語に翻訳したのが村上春樹の文体である、と言う点はもっと考慮されるべきだ。
で、村上の場合、標準語をなんの屈託もなく受け入れている。そういえばちょっと前まで、時々、関西の人は東京に来ても関西弁を話すと言われていたこともあったと思う。そんなことを思い出すと、村上が大学に入って一週間でもう標準語を受け入れてしまったという話は興味深い。
近代文学が、東京の言葉で作られてきたこと、それをもとに言文一致という小説の言葉が作られてきた経緯を思い出す必要がある。村上はこうした作られた言葉をあっさりと受け入れてしまう。村上は日本の近代文学と離れたところから出発したのではない。本人が英語を翻訳した言葉だと言おうが、そもそも「日本」あるいは「近代文学」と結びついている作家であることが分かる。
一方、大塚英志吉本ばななの作品のほうが「普遍的」な性格をもっていることを文体の分析を通じて述べている。村上春樹と「日本語」の関係は少々ねじれたところがある。作者の言葉に惑わされてはいけないと思う。
それにしても、大塚英志の「少女まんが」的なものへの志向が気になる。どうしてこうも「少女まんが」的なるものを肯定的に用いるのか?フェミニズム批評的には、大塚英志の文学批評はどう評価されるのだろう?どこか胡散臭いところがあるのではないか。