何が生きにくいのかを考える
◆大庭健『他者とは誰のことか』勁草書房
◆南条あや『卒業式まで死にません』新潮文庫
『他者とは誰のことか』を読み終えた。「人−間」という存在、他者との関係において「私」なるものが存在すること、などウンウンと頷きながら読む。第一部あたりは、なんとか理解できたけれど、第二部は難しくて読み飛ばしてしまった。
私はバフチンが好きなので、人間の存在を他者との関係において捉える思想には共感できることがあるし、一時期はこの考え方にはまっていた。だけど、頭では説得力がある思想だ、理想的だと思っていても、どこか自分にはできないなあと思うところがある。
自閉的な関係ではなく、開かれた関係へ。このようなキャッチコピーは思想書やコミュニケーションに関する本を読めばすぐに見つかる。私自身、この言葉に異論はないのだけど、どうしてもつらいなという印象も同時に持ってしまう。
というのは、たぶん、私が実際の日常生活では人見知りで、知っている人ならともかく、たとえば初対面の人と話すのは苦手というか出来ないし、とにかく他人と会話したりするのはかなり疲れることだ。誰かと関係を持つこと、それ自体にすごく疲れる。可能なれば内に閉じこもった生活が理想だ、と考えるくらいなので。要するにわがままな性格だ、ということなのだけど。
こんな私からすると、他者と関係を持つ、そのこと自体が負担でしかない。たとえそれが人間存在のあり方だと言われても、嫌なものは嫌だろう。だからといって、たしかに他人との関係を全て切って生きることは出来ないことは承知している。どこかで他者を自分の都合良く利用せざるを得ない。それが倫理的に問題があるとしても、だ。
これだけは、言える。他者と関係することは決して人間解放にはならない。他者と関係することには喜びもある。だが、一方ではそれが生きる上で負担になり、それゆえ生きることが「辛い」ということもあるのだ。喜びだけではないことをわすれてはいけない。
ということを思ったのは、『卒業式まで死にません』を読んだからだ。この本には香山リカが解説を書いているのだけど、香山リカの言うとおり、南条あやの日記は面白いし、これだけの文才というか、文章で自己表現ができるのに、なにがそんなに「生きにくい」のだろうと疑問に感じる。
解説のなかで、こんなことが書いてある。たとえば、南条あやとの診察をシミュレーションしてみたとして、香山リカは彼女の印象を「南条さんは自分のことをきちんと言葉で語れる人のようですね。理解力も高いみたいだし。では、これからあなたの話を手がかりに、いっしょにどこに問題があるかをさぐっていきましょう。ここでは思ったことをなんでも話してくださいね」と伝えたとする。だけど、これが失敗だと言う。
南条さんは「相手が自分に何を期待しているか」をすばやく察知し、それに合わせて行動してしまうようなタイプです。私がこう告げたことにより、彼女は「理性的で話上手な女の子」の役割をいやでも演じなければならなくなるのです。彼女が本当にそういう人だったら、リストカットなんか繰り返すわけはないのに。いや、そもそも精神科の診察室にやってくる必要もないはずなのに。
他者との関係が必要だけど、それが自分を苦しめてしまうというのは、こういうことなのではないかと思う。南条あやの日記も香山リカが指摘しているように、非常に読者を意識しているわけで、他者との関係が生きる上で重要だったことが理解できる。しかし、一方で関係に敏感であればあるほど、それは負担になるのではないか。それこそ、『他者とは誰のことか』にあるような自己組織の倫理学が、「南条あや」のようなタイプの人びとにとっては生きる「つらさ」を与えるようなことになるのではないか。そんなことを考えてしまった。