『アカルイミライ』

◆『アカルイミライ』2002年/日本/115分 監督:黒沢清
約一年前に見た映画。たまたま近くの映画館で上映されるというので、もう一度見に行った。好きな映画は何度でも見たい。
感想というか、気付いたことのメモ。
この映画では登場人物が歩いているシーンが気になる。「歩く」ということはつまり「移動」することだ。この映画の主題が「移動」*1であるとするなら、「歩く」という行為は、まさしく主題を象徴するものなのかもしれない。
そんなふうに「歩く」という行為を注意していたら、ラストシーンがやっぱり「歩く」シーンになる。ここで、高校生達がただひたすら歩いているのをカメラは延々と収め続けるのだけど、やがて、カメラが高校生達の正面になり向かい合わせになると、それまでふざけあっていた高校生達の表情が、真剣なまなざしへと変化しているのに気がつく。その背後では、撮影しているスタッフらしき人たちも写っている。虚構と現実がなんの切れ目もなく接続されてしまったと言えるだろうか。印象的なシーンである。
カメラに顔を向けると言えば、浅野忠信が演じる守が拘置所で自殺する場面で、守が正面を向いて、たしか「じゃあな」といって画面から消えるシーンがある。一瞬、だれに向かって言葉をかけたのだろうと、少し居心地の悪さを感じた。
観ている者に居心地の悪さを感じさせるのも、黒沢清の映画の特徴なのではないか。この映画では、特に前半部では何か違和感を覚えるショットが所々につなぎ合わされていて、それが登場人物たちのコミュニケーションの断絶や苛立ち、悪意といったものを観る者に感じさせて、これが映画の表現なのだろうと思った。
あと一つ気になるのは、仁村と守のバイト先の会社の社長が殺された時、社長の小さな娘だけは逃げて夜の街を歩いている(ここでもやはり歩いている!)のだけど、この少女が一体どうなるのかが気になって仕方がない。

*1:浅野忠信が示す「待て」と「行け」のサインなども、「移動」の主題と関わるだろう。成長物語とは、しばしばある人物の変化を描くものだとすれば、この映画もまた一種の成長物語なのかもしれない。