杜撰さが目につく小説
◆清涼院流水『コズミック』講談社
なんとか最後まで読み通したけれど…。最後まで読むと、なんかがっかりする。解決篇を読んで脱力感を味わった。このために、こんな分厚い小説を読んできたのかと。
思えば、無駄の多い小説だった。原稿用紙にして1400枚ほどらしいが、どうしてこれほど長い小説にする必要があるのか。
まあ、一見物語にとって無駄と思えるようなものが、面白かったりする場合もあるので(たとえば京極夏彦の小説のように)、長すぎるから駄目だ、無駄話が多いから駄目な小説だ、と安易な判断はしたくはない。一見すると無駄な物がどうして書かれなければならなかったのかを考えるのも必要だ。なにしろ「テクストはまちがえない」と述べる人もいることだし。そんなわけで、こうした異常に長い小説を読むことで、たとえば講談社ノベルスあたりは、けっこう長い小説を出版するけれど、それがどうしてなのか考えたくなった。作者の枚数かせぎのため、という理由だけでもあるまい(いや、実際問題そうかもしれないけれど)。
『コズミック』を読んで気がつくのは、各キャラクターの持っている背景がかならず語られることだ。ある登場人物が、どんな過去を持っていて、それが現在にどう影響しているのか。ある人物は、どんな悩みを抱えているのか、というようなキャラクター自身の物語が前面に現れている。これは、おそらくほとんどが事件の謎とは関連がない。事件の謎解きにとって、必ずしも必要な物とは言えない。要するに無駄で、事件の謎に興味のある読者からしたら、いつまでキャラクターの話をやるんだ、さっさと事件の推理をしろ、と言いたくなる要素であろう。
しかし、このそれぞれのキャラクターの持つ物語は、この『コズミック』という小説世界以外の別の世界の存在を想像させる。キャラクターの物語を組み合わせていくと、この小説の背後にさらにもっと大きな世界があるのではないか、と思わせるのだ。つまり、これはかつて大塚英志が論じたビックリマンの世界と同じなのではないかと思う。
ここには、様々なキャラクターの持つ物語を断片的に提示することで、ある大きな世界を想像/創造しようとする作者がいる。ミステリー小説、推理小説では事件の謎やその解決法がメインとなるだろうが、この小説では事件の謎やそれを解き明かすことがメインとならない。それは単に作者の構想する世界を語るための手段にすぎない。作者の目的は、ある世界を創造することにあるのだろう。しばしばエンタメ系の小説が、ミステリー小説としては杜撰な印象を受けるのは、作者がミステリーに関心があるのではなくて、このミステリー小説の世界を支えるようなある一つの世界を創造することに関心が向いているからではないか。(そうして垣間見られる世界観が、時に幼稚だなあと思わせることもあるのだが。)
こんなことを読みながら考えていて、ふと思い出したのはバルザックだった。「人物再登場」の手法を用いて、「人間喜劇」を創造したバルザックの試みは、様々な物語を通じてたとえばパリという一つの「世界」を創造することになるのだろう。それは、ポストモダンにおける物語消費のあり方と比較することが出来るのではないか、という妄想が膨らむ。そういえば、バルザックの小説もしばしば、物語が膨らんでいく傾向があったなあと。人がある世界を語ろうとすると、その語りは饒舌になりがちだ。
それにしても、『コズミック』はあまりできの良い小説とは思えない。最初に述べたように、解決篇が納得できるものではない。アイデアとしては興味深いが、かなり強引すぎる事件の真相ではある。
事件の真相が別に退屈なものでも構わないのだけど、そんな時、たとえば京極夏彦のように読者を楽しませる手もあるし、舞城王太郎のように、文体の魅力で惹きつけるという方法もある。しかし、清涼院流水にはそうした技量がないのかもしれない。(『コズミック』に限って言えば。)特に文章がしばしば気障で、それがあまりにありふれていて、はっきり言って下手なのだ。アイデアだけでは、やはり行き詰まるだろうし、文章をなんとかしないといけないのでは、と思う。