<私>と視線の運動
◆保坂和志『<私>という演算』中公文庫
保坂和志といえば、今年からはじまった雑誌『新潮』での「小説をめぐって」という連載が面白い。ここでもやはり「私と世界の関係」を思考している。3月号では「視線」の問題を論じていて、映像の問題と絡んで興味深い。
小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字のよって作り出すことなのだ。
運動のなかに思想なり意見があるというのは、なんていうか映画的な表現みたいで、やっぱりこの作家については映画を抜きに考えることはできないなあと。小津映画などが、引き合いに出される時もあるけれど、保坂和志と映画の関係も一応押さえておきたいものだ。
あと一つ、メモしておきたい箇所があった。
一つの小説を読むときに、その小説の固有の面白さやいわくいいがたさ(説明のつかない面白さ)を発見できないかぎり、その小説は型や時代・社会の傾向の産物にしかならない。(…)小説について考えるときに、固有の面白さ(というより、いわくいいがたさ)を忘れては絶対にいけない。それを忘れてしまったら、小説を語ることではなく、時代や社会を語ることにしかならない。
こういう文章に共感してしまうというのは、やはり私は文学を論じたいからだろう。社会学の影響などで、文学を論じつつ(文学論は擬態で)実は社会や政治を語る人も、最近は多いがやっぱり文学研究は、古くさいと言われても、「小説の固有の面白さ」を語りたいものであって欲しい、と思う。