階層社会と日本

苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書
阿部和重アメリカの夜講談社文庫
 『大衆教育社会のゆくえ』を読んでみた。著者による例の「知的複眼思考法」を実践した本ということで、一度は読んで参考にしたいと思っていたからだ。なるほど、その批判的読解によって、これまでの「常識」「神話」を覆した本書は、論文の書き方としてとても参考になる。
 有名な本なので、今さら説明するのも恥ずかしいのだけど、本書の主要なテーマは「階層と教育」の問題が、戦後の「大衆教育社会のなかで見落とされてきたことを説明することだ。
日本でも明らかに「階層」が学歴にかなり影響を及ぼしていたのだが、それが一向に問題化されず、学歴取得後の不平等は批判されるものの、そもそもの学歴取得前の不平等にまで目を向けることがなかったのだという。
 面白いのは、たとえばイギリスの小説には「奨学金少年」というテーマがあって、それによると、能力があったために奨学金を得て上級のミドルクラスの学校に入学する労働者階級の少年の物語というものがある。
 一方、日本では受験の厳しさ、受験の失敗による悲劇とか、逆に生まれは貧しくても立身出世した物語がテーマになりやすい。
こうした背景には、日本人のなかに「試験」という一見公平な制度を通して自分の生まれの刻印を消去できるということが挙げられている。

学歴社会という社会認識は「生まれ変われるものなら生まれ変わりたい」という人びとの願望を強化し、その願いを教育へ、学校へと水路づけするイデオロギーとして作用したのである。(p.121)

 ところで、学歴取得以前の格差とはすなわち家庭の文化の差と言えるようなもので、単に家庭の経済力によって教育格差が生まれるのであれば、貧しい家庭には奨学金などの援助を拡充することによって解決可能かもしれないが、「文化」の差が教育の格差となって現れているということは、この差を解決するのはかなり困難であることが述べられている。
 それにしても、たしかに「試験」というのは「公平」「客観的」な選抜システムだと私は思いこんでいたなあと。なんでだろう?私などは、「試験」は誰にとっても公平なんだから、内申書重視だのといった「人格」を判定するような選抜方法は一切やめて、学力試験一発で決めてしまえば良いのに、と思っていた。
ヨーロッパだと試験が、特定の階層の「文化」を反映したものだ、といった批判が起きるというが、日本だとこうした批判は見られない。やっぱり日本人の間には「階層」というものはないのだ、という意識があるのかもしれない。
 そういえば、ある学会のシンポジウムでカルチュラル・スタディーズがテーマになっていたのだけど、カルチュラル・スタディーズ批判の先生が言うには、日本のどこに「階層」があるというのですか、ということだった。うーん、やっぱり日本には「階層」なんてないのか。それとも、あり得ないと信じているだけなのか。

 さて、話は変わって『アメリカの夜』ですが、これがけっこう面白い。で、今この小説をどう読んだらよいのか考え中。鍵となるのは、「物語」「模倣」「光/闇」といったところか。徹底して「物語」を生き抜くこと。しょせん「物語」だろうといったしらけた態度でもなく、「物語」とわかっているけれどあえて演じてみるという態度でもない。「物語」を徹底すること。中途半端に模倣したり演じたりするのではなく、あらゆる二項対立など消滅してしまうまで徹底すること。この小説の中心となるテーマは、そんなところにあるのではないだろうか?